2014年2月14日

インタビュー 菅原直志さん

今回は一関市出身で、東京都議最年少の25歳で日野市の市会議員となり、現在5期20年にわたり市制を支えている菅原なおし議員を紹介します。

<著書>
『はじめよう!被害者支援』 幹書房 共著
『日本海からのメッセージ ナホトカ号重油災害 ボランティアからのメッセージ』 マルジュ社 共著
『地方議会で自治体議会は生まれ変わるか』 都市文化社 共著
<経歴>
岩手県立一関第一高等学校
私立文教大学教育学部
新日鐵化学㈱


---今日はよろしくお願いします。
こちらこそ、お願いします。
----菅原さんは幼少時、お父さんを亡くされてますよね。その頃のお話から、お聞きしたいのですが・・・。
それでは、岩手時代の簡単な歴史をしましょうか。私は当時、岩手県東磐井郡川崎村の薄衣で産まれて、十八歳までいました。自慢話は、私は自宅で産まれたらしいんです。(笑)
----病院ではない?
ええ、自宅出産で、私としては嬉しいことかなと・・・。私を取り上げてくれた産婆さんとは、今も交流があります。
----すごいですね。
北上大橋のたもとにお諏訪さんという神社があります。その神社の周りにある二百軒ぐらいの町がありまして、私はそこで生まれ育ちました。一挙手一投足、全部分かる土地柄ですよ。(笑)
----そうですよね。(笑)
家族は父と母、一つ上の兄、五つほど年下の妹、祖母の六人家族でした。ところが、小学校二年生の秋、父が交通事故で命を落とすわけです。父はお酒を飲むのが好きで、当時、町で酒を飲む所が三軒ぐらいしかなかったと思います。その飲み屋さんで呑んで、家に帰ってくる途中、夜の十一時位に国道の284号線、当時はまだ舗装されていなかったと思いますが、幅員十メートル位の道を横切った時に、偶然そこに来た車にはねられて、後頭部を打ったのが致命傷でした。
----お父さんは、何歳ぐらいだったんですか?
父は四十歳、私が小学校二年の七歳の時でした。夜の十一時頃でしたし、岩手の田舎ですから、たぶん大きな音がしたでしょうし、近所中の大騒ぎになったと思います。私はそのまま岩手で、小中高と進みました。高校は一関一高だったんですが、その時から東京に出る事を心に決めていました。私の言葉で言うと、「岩手脱出」ですね。岩手が嫌だったかというと、まあ嫌なことは色々あったんでしょうけど、それがどうこうというわけではありません。岩手には多少の閉塞感がありましたし、別に何かやりたいとかという大きな希望もなかったのですが、うまれ育った場所から、一回飛び出ていかないとダメなのかな、という感じで東京に出てきました。ここまでが、十八歳までの私の一関時代ですね。
----日野市にある、あしなが育英会の事は知っていたのですか?
知ってました。日野市にしかなかったんですよ。教師になるために、あしなが育英会の寮(心塾)から文京大学の教育学部に通いました。そこは教員養成所ですから、95%の人が教員になるんです。しかし、そこで教員採用試験を受けなかったのは私だけでした。(笑)
----教師になろうとは、しなかったんですか?
今、思うと、私が教師を目指したのは、子供の頃から私の周囲の大人の職業が教員だったということと、奨学金を高校で二つ、大学で三つ借りてましたが、当時は教師になると一部の奨学金の返還が免除になる部分があったからです。ただ、教師になるのは、やめました。(笑)
----どうして、やめたんですか?
大学に五月に入って、一回リセットしました。何故かと言うと、大学に入ると友人たちは、教師一直線なんですね。バイトも塾の講師だったり・・・。それでも、いいのですが、私は人生の幅を拡げられないかと思いました。それと大学二年の時にブラジルのアマゾンで日本語教師をやり、大学四年の時には教育実習がありました。小学校で一か月、中学校で二週間・・・。これらの経験で、私は学校の先生に向いてないと決断が出来ました。(笑)
----そうですか(笑)
その代わりに、人づくりの仕事をしようと考えました。日野の旭が丘に交通遺児の奨学金を借りている学生が入る寮があります。その学生寮の影響が強かったですね。そこは、全国から百人以上の交通遺児が集まって、食費、交通費込みで月一万円で生活出来ました。朝は六時に起きて、ラジオ体操をして掃除、夜の十一時が門限、四人部屋の間仕切りなし、プライベートもなし。(笑)百人の寮生に対してテレビは一台しかないので、テレビは四年間ほとんど見ませんでした。何をしていたかというと、学生寮の仲間と朝まで話していました。テレビがなくても面白いし、お金がなくても楽しめるし、人がいれば何とかなるなと感じて、人づくりの仕事をしてみたいと、思いました。
----でも、それで議員になろうというのも、また飛躍してますよね。(笑)
ええ、確かに・・・。(笑) 実は大学を卒業した年はバブルの最後の年で、まだまだ売り手市場でして、学生が強かったわけです。それで、二年半、サラリーマン生活を送りました。サラリーマンをしている時に日本新党が結成されて、政権交代があったわけです。その日本新党の代議士の中に我々あしながグループの議員が一期生として誕生して、応援に来い、などと言われて、行っていたわけです。政権交代したのが、七月か八月ごろ、その三か月後位に私の恩師から電話がきまして・・・。内容は「会社辞めろ。日野市で市議会選挙がある。お前は二十五歳だから、立候補できるだろ」と。(笑)
----すごい話ですね。(笑)
岩手が第一の故郷であれば、日野は第二の故郷です。あしなが奨学金で大学まで行けたので、社会に恩返しが出来るならば、政治で恩返しするのも一つの形です。それと、恩師にすれば、落選しても、何とかなるだろうと、思ったんじゃないですかね。結婚しているわけでもないし・・・。(笑) 落選しても何とかなるやつということで、私が選ばれたと思うんですが・・・。
---そんな・・・。(笑)
別に政治志向が強かったわけでもありません。恩師に言われたこともあり、また、社会のために恩返ししたいという気持ちもあって、立候補を決めました。
---たしか、山本さんでしたか・・・?
はい、あしながグループ出身の議員は二人おりまして、一人は山本孝史、癌で最後は参議院議員で命を落としました。山本議員とは仲良くしていただいて、山本議員の最後の選挙、参議院選挙では、山本さん自身はマイクをなかなか一人では握れませんでしたので、私が東京の遊説隊長として、山本議員の代わりにマイクを握っていました。山本議員が手掛けていた癌対策基本法を受けて、私も日野市で癌対策を進めているわけです。もう一人は藤村修。この間まで官房長官を務められていました。二人とも私が十八歳の時からお世話になっている、あしなが運動の恩師なので、この辺から、やれと言われた部分もあります。
----なるほど、でも誰にでも声を掛けていたわけではないですよね。
誰にでもってわけではないですね。私が何番目かは知りませんが・・・。
----見どころがある、と思って声を掛けたわけですよね。(笑)
どうでしょうか・・・。(笑)だから、最初は日本新党公認だったんですよ。
----無所属ではなかったんですか?
初めは日本新党公認ということで、話をいただきました。ところが、ここが私のいけないところで、市政に政党は関係ないだろうと、生意気なことを考えたんですね。
----そうですか・・・。(笑)すごいですね。無所属ということは、何にも援助がないんですよね?
何もないですよ。
----よく、分かりませんが、ポスター作ったりしますよね。それも自前なんですか?
全部、自前ですよ。基本的に自前だと知っていたら、立候補しませんでしたよ。(笑)
----そういう事だったんですか?
何とかなるだろうと・・・。その辺の話をすると、準備をほとんど、してないんですよ。理論的な事も何も・・・。政治に無関心の普通のサラリーマンだったわけですから。それと、経済的な準備もしていません。会社を辞める時に三十万の借金があったくらいですから。
----そうなんですか?
バブルの最後のサラリーマンって、本気で遊んじゃうんですよね。退職金はほとんど、会社に返して終わり。退職金というのは、冬のボーナスですよ。その当時は川崎に住んでいて、日野市に引っ越してきた時に、私の手持ちのお金は五万円しかありませんでした。全財産ですよ。選挙に出れないし、翌月の家賃も払えないんです。その位、準備をしていませんでした。
----はあ・・・。
ですから、一番最初にやったことは資金集めです。自分の恩師とか知り合いに手紙を書いたりして、お金を集めました。それも、全部売り払って、日野に来てますから、家に電話がないんですよ。、夜は毎日、日野市の豊田の駅前にある公衆電話の電話ボックスにこもって、知り合いに電話しました。公衆電話から選挙に立候補する意志を伝えました。学生寮の同期がいましたから、彼らには結婚式のお祝い金を前借りしました。彼らに対しての公約は結婚するから、ご祝儀を前倒しでくれと・・・。(笑)
----それも、すごいですね。(笑)でも、出してくれたんですよね?
ええ、出してくれました。それには二つの意味があったと思うんです。一つは、二十五歳の若いやつが、世の中にチャレンジしようとした時に、集められる限界のお金があると思うんですよ。まあ、身の丈ってやつですか。それで、勝負できなければどうしようもないだろうと。私の身の丈は百万円です。もう一つは、貧乏な出自でも志で、社会にチャレンジするということが大事で、お金があるから、立候補する、お金がないから、立候補しない。こういう社会では、おかしいだろうという、意地もありました。そんな話を公衆電話からして、皆、出してくれました。(笑)
----出す方も、すごいですよね。(笑)
ええ、すごいですよ。(笑)当時は家に暖房器具がなかったんです。洗濯機もなかったんです。日野市の選挙って、二月なんですよ。選挙の準備は十二月からでしたので、一冬、暖房のない部屋に帰るという感じでした。そこから、また洗濯に行かなくてはいけないです。
----それは、コインランドリーですか?
ええ、コインランドリーに行って、またキンキンに冷える・・・。今、考えると大変だったんでしょうけど、当時は大変だと思わなかったですね。この位は普通だと・・・。
----ううん・・・。
テレビもねえ、ラジオもねえ、そういう暮らしで・・・。(笑) ただ、勝てるかな、と思ったのは、私のチラシ配りに百人、集まりましたから・・・。「二日間だけ、チラシを配る」と、皆に電話したら百人、集まってくれました。
----すごいですね。
集まったのは、意気に感じて来た仲間か、悪いことをした仲間か、そのどっちかですね。社会の表と裏みたいな・・・。(笑)
----例えは悪いですけど、暴走族のリーダでも、人が集まるには器が必要ですからね。その器があると・・・。
まあ、そうかもしれませんね。私の場合はカラオケボックスで全裸になって、寝ている時のメンバーが来ると・・・。会社に三十万、借金したのも、無駄じゃなかったなと・・・。
----とても、そういうイメージでは、ないですね。刻苦勉励みたいな印象を持っていたんですが、二宮金次郎みたいな。
いやいや、全然。(笑)
----だいぶ、最初に抱いていたイメージが変わりました。
ははっ、一期目はそんな感じで終わりました。よく名簿がないと、ダメだとか言いますけど、そんなことはないですね。一期目で握手したのは、四人ですよ。数えられましたもの。
----あらら。
駅前で演説していても、こっちから、手を出せないんですよ。怖くて・・・。
----そういうものなんですか?
そういうものですよ。だって、準備してないんですから。
----あの、菅原議員といえば、有名な自転車遊説がありますが、あれは一期目から、あったんですか?
一期目から、してましたよ。
----何で、そんなことを考え付いたんですか?
それは選挙カーがないから・・・。(笑)
----そういう事だったんですか?(笑) 私は面白いパフォーマンスだと、思っていたんですが。でも、今は選挙カーがありますよね。今でも、続けておられるのは?
ずっと、自転車がメインです。ただ、応援者が増えてきて、全員が自転車に乗るというわけにもいかないので、選挙カーも使っています。私の動きは自転車ですね。
----名物と言っては失礼ですが、日野の選挙の風物詩になってますよね。私も菅原議員に声を掛けたことがあります。
自転車選挙ですが、あれがあってよかったんでしょうね。
----非常にインパクトが強いですよね。まず、誰もこんなことをやる人はいないし・・・。
他の街では出来ても、日野市のように起伏の豊かな土地でやる人はいないでしょうね。でも、自転車選挙はいいですよ。
----いいですか?
それは・・・何というか・・・楽しいんですよ。
----筋肉を動かすから楽しい?そういう事ではなく、人と触れ合えるから?
両方ありますね。もちろん、選挙運動というくらいですから、フィジカル的な楽しさもありますけど、やはり有権者の方と距離が近いですよね。
----はい。
圧倒的に距離が近いですよ。組織も何もない人間にとっては、やはり、ああいう選挙スタイルはいいですね。私のチームは若い人が多いので、多分、絵にもなるんでしょうね。
----うん、そうなんですよ。パワーを見せつけるという、パフォーマンスになるんですね。
あの一体感は病み付きになるんですよね。応援団の方たちも選挙カーの中から、四年に一回、私たちの自転車を見るのが、楽しみという人がいるんですよね。それと、メリットはパフォーマンスだけではなくて、多分、日野市の全部の道を走るんですよ。これが大事です。日野市の職員で日野市の道を全部通ったというのは、それほどいないと思います。この経験は強いです。それを、五回やってますからね。車からは見えないものがあります。それと、一期目の時は選挙事務所がなかったです。
----はい?
自転車とスピーカーが一個だけ、チラシが一種類、ポスター二百枚、あとは人しかいませんでした。おまけに、初日から、喋り続けますから、最終日には本当に声が出なくなります。のど飴も買えなかったですからね。
----そうですか・・・。
最終日、私が声が出なくなったら、私の後ろの自転車部隊が代わりに演説を始めたんです。私の演説を聞いていたんでしょう。これは、嬉しかったですね。こういう言葉があるんですよ。水面に輪を拡げたかったら、最初から網を張っちゃうとあまり、拡がらないんですよ。深く深く、打ち込むと輪がグーッと拡がっていくんですよ。周りの事はどうでもいい。自分の勝負するところを、深く突き詰めていけば、その輪は拡がるし、そうでないとおかしいと。
----素晴らしい話ですね。
そんな事を街頭でも話しましたし、選挙スタッフとも話しました。選挙スタッフもその気になってくれて、本当に一体感のある選挙を続けさせていただいて、ありがたいなと。
----ううん。それで、今は民主党に入ってますよね。どうして、民主党に?
はい、私の最初の入り口は日本新党でした。地方自治に政党はいらないと、無所属になりました。これには結構、こだわりがありました。それで、四期まで無所属でした。ただ、政党政治を否定しているわけではないので、ずっと、前の民主党から推薦をもらっていたんです。段々期数を重ねて、長くなってくると、地方自治とはいえ、ある程度、日本全体の事も視野に入れて仕事をしていかなくてはならないのだなと、思ってくるわけです。東京にある21区の地方議員の中で、私が一番の古株なんですよ。日野市の市議会の中でも、古株の方なんです。そうなってくると、無所属で一匹狼というだけでは、どうも無責任な感じがしてきたんです。
----ううん。なるほど。
政党を担っている人たちの動き方や、関わり方をみていると、彼らは政党からメリットを受けているというよりも、矢面に立っている感じがして・・・。それは、素晴らしい関わり方じゃないかと、見えてきた部分がありますね。そんな時に、民主党が政権を取るわけです。私が四期目の時です。これからの、私の立場としては、今まで、民主党を応援してきましたが、民主党が政権を取ると批判の対象になるわけです。
----そうですね。
政権を取るということは、イコール批判されるということです。今まで通り、無所属でいれば、批判を受けた時に、私は無所属だと言うことができます。何かそれって逃げだなあ、と感じて、これは矢面に立とうと・・・。ある程度の年月、政治に関わってきた人間は、地方自治では政党色を出さなくてもいいと思いますが、ただ政治を担っている限りは政党政治に関わっていく部分も必要だと、そういうわけで五期目から民主党に入りました。
----そうですか。
まあ、矢面に立とうと思ったら、本当に矢面に立ち過ぎて。(笑)
----確かに、そうですね。(笑)
大変な矢面ですよ。でも、この経験がいつか活きると・・・。武蔵坊弁慶が矢面に立ったような話ですよ。(笑)ただ、それは、どこか私たちには必要な事だと思います。

----あと、本も書かれてますよね。犯罪被害者についての・・・。よろしければ、そちらの方の話も伺いたいのですが。
はい。本は一応、三冊ほど書いた事になっているんですが・・・。一冊は地方議会の改革について、二冊目はナホトカ号のボランティアの体験について書かれた本に私が執筆者で名前が入ってます。三冊目が犯罪被害者に関する本で、『はじめよう 被害者支援』という題名です。少し、話が長くなるかもしれませんけど。
----ええ。
犯罪被害者・・・傷害、殺人・・・交通事故などの被害者、彼らを地方自治体がサポートすべきではないかと考えました。私が二期目の時です。とはいえ地方自治で、どうしたらそういう事ができるのか、逡巡していたんです。私は『あしながさんの愛を政治に』というスローガンで選挙に出ているのに、なんか看板倒れで・・・。あしながさんの愛なんて、何も政治でやっていないなと、そう思いながら一期目の四年間は過ぎていきました。二期目もなんとなく悩みながら、やってました。そんな時に埼玉の嵐山町で、犯罪被害者支援の条例ができました。この条例を取り寄せて、読んでみました。それで、私は号泣したんですよ。行政の条文なんて、面白くもない話です。なぜ号泣したかというと、行政や社会、公が犯罪被害者をサポートするんだと、こう書かれているわけですよ。私も犯罪被害者です。しかし、サポートされた事も意識してないし、多分、私の父が亡くなった時もそんなサポートはなかったんです。今、時代を経て、犯罪被害者を支援するのが、社会の責任だと・・・。ここまで、変わったということですよね。さっそく、嵐山町に行って、少し研究をして、多摩地域の若手の議員たちで研究会を立ち上げました。その研究会で、犯罪者の支援をするのは、行政の仕事だと、それなりに勉強しました。しかし、条例化には結構、時間がかかりましたね。
----ううん。
その時に書いたのがこの『はじめよう 被害者支援』という本です。構成から何から、原稿の半分は私が書いて、あとは仲間たちと勉強したことをまとめました。今、思えばずいぶん稚拙な本ではありますが、思いは詰まったものができました。その結果、全国に被害者支援の条例が、結構できました。
----はい。
東京では日野と多摩と杉並と国分寺の四つです。なかなか、拡がりませんね。
----そういうものなんですか。
ただ、この四つの自治体は私たちの仲間の自治体です。どういうことかというと、あの時、一緒に本を書いた議員がそれぞれの議会で発言をして、一つ一つ条例を産み落としていったと・・・。そういう自負はありますね。おそらく日野は全国で初めて、犯罪被害者の窓口を開いた自治体です。
----そうですか。
職員はひどく緊張してましたけどね。
---それは?
どんな被害者が来るかわかりませんし、本当に地方自治体の守備範囲なのか、という議論もありましたよ。でも、それを超えて職員が窓口を開いてくれたというのは、嬉しいですね。実際にその窓口は年に何回かは機能してます。
----それは金銭的に支援するということですか?
支援の仕方というのは二つあります。一つは経済的支援、もう一つは行政上の手続きの支援。経済的支援というのは、全国にある被害者支援の条例のほとんどが経済的支援なんですが、殺人事件で家族をなくした場合に、御見舞い金を三十万円出す。その程度なんです。ほとんどの自治体で作っている条例はお見舞金支給条例ですよ。私の考えた条例というのは、御見舞い金支給条例ではなくて、血の通った条例というか、被害にあった家族や被害者本人が次にリスタートができるための条例。ですから、何でもありです。
----はあ。
たとえば、家が犯罪現場になって、警察が入って帰れません。その日のホテル代はどうするんだ?という話もありますよね。そういうところから、介入していきます。家族に小学生、中学生がいたら、その学校はどうするんだ?また介護を受けていたら、どうするんだ? という生活上の問題があります。そういうところにも、日野市の職員がサポートできるようにしてあります。被害に遭うことは最悪のことであり、また理不尽な事ではあるんですが、行政がその一つ一つにサポートすることによって、彼らがもう一回生き直すスタートになるだろうと。
----ううん。
犯罪被害者は一人では立ち直れません。頑張れ、と言われたって、頑張れるものではありません。しかし、あなたは悪くない、というメッセージを出すことと、あなたの隣に私たちがいるというメッセージを出す事で、もう一度生き直す事ができると思うんですね。それをやるには金銭だけではなくて、行政マンが実際に被害者のところに行ってあなたは悪くない、あなたの生活のサポートは私たちがしますといって、その人の隣に座ること、これが大事です。これが今の行政に出来る犯罪被害者支援なんだろうなと。
----そうですか。
多分、私は川崎村でこういう事を誰かにやってもらったんです。だから、私も今,生きていられるわけで。これは自分の体験を通してですけどね。
----お父さんが亡くなられた時は何か行政から支援はあったんでしょうか?
ゼロですよ。何もありませんよ。
----では、どうやって、生計を立てておられたんでしょうか?
母が和裁を仕立てる職人でしたから、それと遺族年金と。まあ、年収にしたら、二百万あったのか、ないのか。生活保護レベルの家庭ですよ。
----そうですか。
そんなレベルですよ。だから、高校も一高以外は受けられなかったし、大学も文教大学一校しか受けられませんでした。そう親から言われました。合格しなかったら、多分、岩手で別の仕事をしていたんでしょうね。
----ううん。
そのくらい、将来の選択肢が狭まりますね。ちょっと、羨ましかったですよ。一高の友人が、大学受験の合宿だといって、冬に行くじゃないですか。私は無理でしたからね。
----そうですか。
行政からのサポートはないです。もう少し言うと、司法の場でも犯罪被害者は何のサポートもありません。刑事裁判がありますよね。私の親を轢いた犯人がいます。彼の裁判がいつ行われるのかというのが、裁判所から通知されませんから、被害者遺族が知らないうちに裁判が終わっているというのが、たくさんあります。
----今もそうなんですか?
今は変わりました。それも、ここ十年ぐらいです。
----お父さんを轢いた加害者の名前も、教えてもらえないのですか?
母は教えてもらいましたが、私は知らされていません。それも、司法から教えてもらうわけではなくて、保険会社から教えてもらうんです。
----なるほど、そういうことですか。
あとは警察から教えてもらうこともありますが、裁判というのは国家が加害者を裁く場ですから、被害者は関係ないんですよ。被害者に裁判の日程とか、訴訟参加が認められたのは二〇〇二年からですから。それまでは基本的になかったんです。もっと言うと、私の父の加害者が裁判になったかどうかは家族の誰も知りません。
----えっ? それは、どういうことですか・・・。
業務上過失致死で、その加害者が起訴される確率って、確か一割ぐらいなんですよ。
----そんなものなんですか?
そういうものなんですよ。おかしいと思うでしょうが、そういうものなんです。被害者が亡くなってますから裁判になっていると、思いますけど、亡くなってなければ、裁判にもなってませんよね。または簡易裁判でパパッと終わらせますよね。だって、そこで争うことはないわけですから。
----そうですか。
だから、犯罪被害者でも交通事故の被害者は、自分の親の最期の亡くなり方を知らない場合が結構あります。時速何キロのスピードで轢かれたのか。または刃渡り何センチの刃物で刺されたのか、分からない事があります。マスコミから聞くとか・・・。
----それは、請求してもダメなんですか?
今は大丈夫です。
----二〇〇二年以前はダメだったんですか?
裁判の傍聴も扱いは普通の傍聴と一緒です。マスコミに犯罪被害者が出る場合がありますよね。それは民事裁判をやるといって、犯罪被害者が弁護士を雇うんです。その弁護士が被害者を裁判に連れていくんです。
----なるほど。
ウチなんかそんな力はないし、岩手のあんな田舎ですからね。(笑) 自分がどのような状況で死んでいったのか、病気の場合は事細かに伝えられます。災害の場合も分かる範囲で行政から伝えられますよ。犯罪被害者の場合は伝えられないことが多くて、しかも自分の知らないところで処理されていることが多い。これは結構なストレスですよ。そういう事がおかしいと思って、本を書いたり、今は全国の犯罪被害者の大会があって、十一年目になるんですけど、それも一時期、私が事務局長をやらせてもらいました。北海道から沖縄まで犯罪被害者の団体があって、そこと連絡を取って、東京で一泊二日で大会をやるなんていうことも最初から関わらせてもらい、その被害者からも教えてもらって・・・。そこから派生した『いのちのミュージアム』という事業があります。
----はい、廃校を利用した・・・。たしか、日野市の百草団地内にありますよね。
この事業を誘致するのに私もかなり関わらせてもらって、あの団体とつきあってもう十年になるんですけど、危険運転致死傷罪という罪がありますよね。この罪を求めて署名運動をした団体なんですけど。十九歳になる息子さんを飲酒、ひき逃げ、無免許、無保険、無車検の加害者に轢き殺されて亡くした母親、その加害者が懲役五年、これはおかしいと・・・。それで、署名運動をしたんです。鈴木共子さんという女性の方なんですけど。鈴木さんと関わって。もう一人は、東名高速道路上で、後ろから来たトラックに幼い子供を二人を亡くした。その父親と母親、その二家族が署名運動をしまして、その直後くらいから、私もその二家族と仲良くさせてもらって・・・。その団体が、全国を回る『いのちのメッセージ展』という企画展を企画、立案、運営していたんです。人型の真っ白いボードがあって、その高さは亡くなった時の身長の高さ、顔写真と家族のメッセージと足元には使っていた靴、それを置いて全国を展示会して回るんですが、非常にこれはショッキングな展示物なんですけど、心に響くんです。この人型のボードの胸にあるメッセージなんですけど、家族の想いが綴られるんです。中には犯罪のひどさを書く人もいますよ。でも、その多くはその家族をどれだけ愛していたか、滔々と綴られるんです。メッセージ展に来て、そのオブジェと出会った人たちは犯罪が憎いということよりも、私もこんなに家族に愛されているだろうかと、家族に会いたくなって、帰っていくという。家族愛がとても入った展示会です。その団体が拠点を探していたんです。それまでは自分の家だったんです。鈴木さんの県営アパートで3DKです。3DKのうち二部屋はそのオブジェで埋まっていて、自分は残った一部屋に住んでいました。全国から段々仲間が増えてきて、NPOを作ってくれと、それでNPOを作って、日野市と契約して、廃校になった百草小学校の空き教室に来てもらいました。今は全国の小学校、中学校で、いのちの授業を展開し、この週末沖縄でメッセージ展を展開し、今年から五年計画で全国の刑務所全てで、メッセージ展を展開します。つまり、国からも活動が認められています。


----興味が湧いてきましたね。
是非、行ってください。毎週、金土日は空いてますから。
----それは予約無しで、いいですか?
ええ、金土日はいいですよ。無料ですし。ミュージアムですから。全国の刑務所から、何故これが求められたかというと、加害者に対する矯正教育に限界がある。「お前たち、もう悪さするなよ」と、言っても、限界があるわけですよ。それよりも、自分が何を奪ったかということを想像させることです。こんな家族がいる。こんなに愛されている人たちを自分は殺めてしまったのかもしれない。加害者、被害者の関係。それを想像させる力ですね。これが、認められた。そういう感じでいのちのミュージアムが発展してきました。
----それは、岩手では開催するんですか?
ええ、やりますよ。やりましたかな。
----過去形ということは、盛岡かどこかで?
去年、二戸で、飲酒運転でお子さんを亡くした事件があったんですね。大崎さんというんですが、その大崎さんを中心に、去年やりました。後は仙台育英高校では毎年やってます。
----仙台育英高校?
はい、仙台育英高校では飲酒暴走した車が、生徒の列に飛び込んだ事件が五年ほど前にありましたよね。それで、メッセージ展が繋がったんです。毎年、五月二十二日が、たしか命日なんです。その日の前後にメッセンジャーが仙台に行って、『いのちのミュージアム』を開催します。

----ううん。
いま、私が考えているのは気仙沼大島でメッセージ展をやりたいと。もう、小学校と中学校には話をしているんですけど。なぜ、気仙沼大島なのかというと、この気仙沼大島が今、日本で一番命を軽く扱っているかな、と。
----それは、どういう・・・?
東日本大震災がありました。その後、みんな仮設暮らしをしています。もちろん、東北の沿岸部はみんな仮設暮らしをしてますよ。ただ、他の仮設暮らしと気仙沼大島の仮設暮らしとは決定的に違う点が一点あります。それは何かというと、大島にはアパートが一軒もないんです。それがどういうことかというと、他の仮設の人たちは仮設に住めなくなったら、アパートに転居できるんです。いい悪いは別として・・・。自分の家が建たなくても、アパートに移れば何とかなる。ところが、アパートの無い大島は仮設が無くなったら、本土に行くしかないんです。お年寄りが、本土には行けないでしょう?家も簡単には建たないです。ここで、家が建つ被災者と家の建たない被災者が出てくるんです。この分岐点は何かというと、国からの見舞金が来る、来ないですよ。つまり、家族が死んでれば残った家族に八百万円来るんですよ。家族が生きていればゼロ円なんです。つまり、お年寄りが死んでいれば、見舞金が八百万円来るんです。「おらが死んでいれば家が建った」と、大島のお年寄りが言うわけですよ。五回ほど、大島に行って、分かるんです。
----なんということですか・・・。
震災の後は、生きていてよかったと、肩を叩きあって喜んだ仲間だけど、その後の国の制度の愛慕の中で、自分が死ねば家が建った、というお年寄りがいるんですよ。あの島には・・・。
----驚きました。初めて知りました。そういう考えになる人がいるなんて。
でも、そうなりますよね。アパートがある無しで・・・。アパートがあれば、そうでもないのかもしれませんが・・・。大島に一校しかない小学校、中学校でメッセージ展をやって、何かメッセージを伝えられたらなあと・・・。それには、もうちょっとだけ時間が必要みたいで・・・。ただ、種はまいてきているので。
----ううん。
こんな仕事も・・・。仕事ではないですけど、やってます。(笑)
----おそらく、使命感があるんでしょうね。
まあ、そうでしょうね。議員になった理由もそこにありますしね。

今、自殺対策について、取り組んでおりまして、その話をさせてもらうと、自殺については私はおそらく二十年前ぐらい前から関わっているんですよ。あしながの集いがあって、その時に自殺遺児の集まる場所があって、私もその場にいました。その時に言われた事は意見するな、と、とにかく話を聞け、と。全部、肯いて話を聞くだけでいいんだと・・・。その後、その自殺遺児たちが新宿区新宿にボロボロのアパートを借りて共同生活を始めるんですよ。交通遺児たちの寮はありましたけど、自殺遺児たちは、そこには入れないわけですよ。奨学金の制度が違いますので・・・。
----ううん・・・。
それで、あしながの奨学金が別に出来ました。交通遺児だけではなくて、全ての遺児の救済をしようという運動を興しまして、別団体なんですが、あしなが育英会というのが出来ました。そこから、奨学金を借りたけど、東京に住むにはボロボロのアパートを五部屋位に十何人住んでました。自殺遺児は半数ぐらいいたんですかね。そこに私が、ああだこうだ言いながら、食事なんか持っていきました。その子たちが本を出したんです。『自殺って言えなかった』という本です。この本が結構、売れまして・・・。彼らがいうのはこういうことなんです。自殺した自分の父親は社会的に何も悪いことはしていない。だから、私は名前を隠さない。顔も隠さない。モザイクもかけない。声も変えない。そのまんまの自分で行動に出る。と、何人かはそう決めて、それで『自殺って言えなかった』という本を出したんです。これは、衝撃だったんです。
----ううん。
今までの自殺者の遺族というのは、声を変えて、名前を変えて、と・・・。そういう人生じゃないと、遺児たちは考えたんです。衝撃的でしたね。そういう本が、私の通っていたボロアパートから生まれたんです。彼らから教わったことはいくつかありますよね。大きな点は二つあります。一つは私の親はこの世で生き切れなかった。自殺しているわけですから。自分の親が生き切れなかった世の中に自分は出ていく自信がないと。学生たちは言います。もう一つは自分は親に捨てられた人間なんだと、だから自分は生きていく価値がない。この二つを私は突きつけられました。それと同時に清水康之さんという方がNHKの報道デイレクターを辞めてライフリンクというNPO法人を立ち上げて、自殺防止に取り組むんです。ライフリンクの活動の中でいくつか教わったことがあります。一番大きかったのは98・3という言葉なんです。98・3とは何かというと、1998年3月ということです。この時に何があったかというと、今まで毎月二千人ぐらいだった自殺者がこの月から三千人になるんです。つまり、毎月二千人だから、年間の自殺者が二万人なんです。毎月三千人だと、年間三万人になるんです。
----なるほど。
潮目が変わった月というのが、1998年3月です。では、何があったんでしょう? この年は1997年の年度末ですよね。1997年は北海道拓殖銀行の閉鎖、山一証券が破たん。つまり金融危機ですよ。金融危機の中で最後の決算月に、その経営に関わっていた人が自殺していくんです。これは経済死であり、社会死だと。毎年二万人だったのが、なぜ三万人になったのか?世の中が変わったから自殺者が増えたんだと。ならば世の中が変われば自殺者が減るでしょうと、単純なことなんです。世の中を変えることは私たちにも出来るだろう、と思って、自殺対策は自治体の仕事と定義づけて、研究していくわけです。それが日野市の自殺対策の条例になっていくわけです。これは全国で二番目のスピードで出来た条例なんですが、大仕事でした。

----犯罪被害者支援と自殺対策ですね。
三つめはがん対策。がん対策は、参議院議員の山本孝史」さんから受けた薫陶です。彼が命をかけても最後までやり抜こうとした仕事。彼が私に残してくれた言葉で一番強く残っているのは、がんイコールリタイヤじゃないと。最初はよく分かりませんでした。山本議員はがんに倒れるまで仕事ができたから、確かにがんイコールリタイヤじゃありません。しかし、決してそういうことじゃない。今、日本のがん患者の六割は治療をして、完全に治らなくても、社会生活に戻っているんです。つまり、これからのがん患者はがんと共に生きるということですよ。完治ということはなかなか難しいかもしれないですが、再発しなければ大丈夫ですよ。それにがんというのは、分かってからもう一度、自分の人生を見つめ直す病気だと思うんです。だから、がんイコール人生であって、がんが見つかってから本人も大変、家族も大変。闘病の時間が大変長い。まさに国民病ですしね。二人に一人、三人に一人はがんで亡くなる。これは医療だけに任せてはおれないな、と思いました。なので、がん対策を進めようと。これもがんの遺児、がんで親を亡くした子供たちから、学びました。彼らは三つの事を言うんですよ。一つは、親ががんになって、自分たちは無視されたという感情を持ちます。これはどういうことかと言うと、子供は家族の視線の中心ですよ。いつも、家族から一心に注目を浴びる存在ですよ。だから、自己肯定感が高くなって、元気になっていく。ところが、家族の誰かが、がんになると、家族中の注目がそっちにいくんですよね。それで子供はよく分からないから、無視されたという感情を持つんです。これはがん遺児たちから、直接、私たちに言う言葉です。二つ目はがんは怖いということ。何が怖いかというと、やせ細っていく親を見るのが怖いんです。病気じゃないんです。怖いから病院に行かなくなる。それで、親の死に目に会えなかったという子供が結構います。三つ目は騙されたと思います。例えば父親が闘病していると、母親から「お父さんは治るから。治るから」と言われて、そうなんだろうと思って生きているわけですよ。ところが末期なわけですよ。それで、治るんだったら、出来るだけお見舞いには行きたくないという子供が結構いて、変わっていく親を見るのは子供心に辛い。でも、そこで、親が正直に「あともう何か月の命だから、出来るだけ親と関わってあげてね」と言ってくれてればお見舞いに行ったのに、騙されたと思う子供が結構います。
----ううん。
大人が考えるがんというのと、子供が考えるがんというのは違うんです。これを私はがん遺児から学びました。なので、これはがんは生活を丸ごと支えないといけないなと思いました。そこで議員の中でがん対策の研究会を作りたいと。そのタイミングで我々の同僚が、がんになるわけです。膵臓がん。がんが発覚してから半年後に壮絶な闘病の中で、亡くなっていきます。でも彼は亡くなる十日前まで、議場に登壇してるんです。つまり、がんは最後まで働ける仕事なんです。それを彼は体現してくれた。今井昭徳さんという議員なんですけど、今井さんの病床で私は約束をしました。がん対策に議員連盟を作るから、今井さん、あなたにもメンバーになってほしいと。今井さんは言うわけですよ。私はこんな体だから、一緒にできないよ、いやいやそうじゃない。今井さん、あなたの闘病が立派なメンバーシップだよと話をしたら、だったら、やると。細かいことは私がやると。後は生きている事が政策だから、という話をしました。それで、がん対策議員連盟をまず二人で創りました。それで、がんで亡くなります。その後、日野市議会の中でがん対策議員連盟を作ろうと言ったら、全ての議員が参加してくれました。それでは各会派から、一人づつメンバーを出して、半年間勉強会をして、提言書を作って、その半年後にはがん対策の条例を議員全員で提案したんです。これも日野市議会始まって以来のことです。条例が可決されたのが去年。犯罪被害者のこと、自殺の問題、がんの問題、これらは全てをあしなが運動で関わった遺児たちが教えてくれたことであって、あしながさんの愛を政治にという私の旗のもとで、私なりに昇華して、日野市に還元できたことかなあと。まあ、まだまだ、道半ばですけどね。三つとも。

----素晴らしい話ですね。将来、一関市に戻って議員をやられるとかは?(笑)
どうですかね。まあ、全ての可能性は否定しない方がいいと思いますが。(笑)
----実は私の友人が東京のあきる野市で市議会議員をしておりまして、今、二期目でやっております。話を聞くと、四年ごとに就職活動をして、議員年金もなくなって、秘書もつかない。議員なんて、全然おいしくないですよ、と。
ええ、おいしくないですよ。(笑)夢も希望もないという人がいても、おかしくない仕事ですね。社会の人はみんな議員をいじめ過ぎ。(笑)
----いや、すいません。(笑)
私は議員報酬を上げるべきだと思うんです。やっぱり、レベルが下がりますよ。
----なるほど。
皆がなりたいと、競争率が上がるようにしておかないと。議員年金もなくなったりとか、何かと叩かれる事が多すぎて、本当に良くないですよ。文句言うなら、レベルが上がる仕組みにした方がいいです。
----世間の人はあまり議員の生活をよく知らないですからね。先生、先生と呼ばれて、お金も使い放題。
議員報酬は一千万、いかないわけですよ。九百五十万とか・・・。それが頭打ちの個人商売主。そういうと経営とかされている方は、ええっと驚かれるんですよ。個人経営主の方だと、そこから控除がありますけど、我々はほとんど控除がありませんからね。国民健康保険も満額、保育園も満額、全ては基準の中で最高額になるんです。だから、あまり残らないんですよ。その中から活動して、選挙資金貯めて、残ったお金でご飯食べる。(笑)しかも、四年後の保証はない。こんな状態では次のなり手がいないですよね。
----ひどい話なんですが、世の中が就職難じゃないですか。就職先を探すより、議員になった方がいいみたいな。
本当、そうですよ。
----それだと、目的も意識もなく議員になって、ただ食えればいいみたいな議員も出てきますよね。
ええ、出てくると思いますし、その傾向はありますね。
----ううん、そうですか。
そうなるとね・・・。動機が大事ですよね。何がしたいのか? そこがぶれると、問題ですよね。仕事は面白いんですよ。ゲームみたいで。私らの仕事って、分からないですよね。
----分からないですよね。私は友人が市会議員のおかげで、何となく分かりますが・・・。一般の人は先生、先生と言われて、しかもテレビでは恰幅のいい俳優が地方議員の役をやって、権力を使い放題みたいな・・・。
そうですか・・・。そういう人もいるでしょうけど、大部分の人はそうじゃないですよ。ただ、この仕事のいいところは二つあると思うんです。一つは自分の責任を自分で取れる。これは、ありがたいと思います。会社の責任を自分で取る。自分の責任を会社が取ってくれる。そういう事が世の中にはありますよね。
----あります。あります。
そうじゃないんです。議員は自分の責任を自分で取れるんです。足りてるかどうかは別にして。それともう一つは、自分で自分の方向性を決められる幅が大きいですよね。
----ううん。
この二つは決定的に他の職業より、ありますよ。
----そうですか・・・。
他にいい所はないなあ。(笑)
----いや、面白い話ばかりで、もっともっと伺いたいんですが・・・。
あっちこっち、話が跳んでますが・・・。(笑)
----ここで、一関市の方々にメッセージをいただきたいのですが・・・。
若い人向け?
----そうですね。平泉が世界遺産になったとはいえ、まだ一関市は発展途上の街です。就職で悩んでいる若い人もいると思うんです。
難しいですね。
----先ほどの話に出てきた、『水面に輪を拡げたかったら、深く深く、杭を打ち込め』という言葉、とてもいい言葉だと思うんです。この言葉をメッセージにしても、よろしいですか?
うまく、まとめてくれましたね。(笑)


----菅原議員の高校時代の同級生がマジシャンの菅原英基さんとか?
ええ、彼は私立理系でしたから、段々、離れていくんですが、同窓会では会ったりしますよ。それにインタビューされてた、なかだえりさんの恩師の陣内秀信さんは何度も日野市に来られていて、私も懇意にさせていただいています。日野市の将来について、いろいろ意見をいただいています。
----面白いですね。いろんな繋がりが出てきました。菅原英基さんは次回、インタビューしたいと思います。





















































































































































 

2013年7月7日

[インタビュー]なかだえりさん




北千住の街
今回は一関市出身で、現在は足立区千住にある、約200年前に建てられた蔵をアトリエにして、イラストや執筆活動をされている、なかだえりさんを紹介します。
                                      
                 



[主な作品]
・とらえどころのない曖昧な輪郭(星雲社)
・東京さんぽるぽ(集英社)
・奇跡の一本松~大津波をのりこえて(汐文社)
・駅弁女子 日本全国旅して食べて(淡交社)


----どうも、初めまして。よろしくお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いします。
----初めになかださんの経歴を訊きたいのですが・・・。
はい、私は一関市の真柴に生まれ、南小、一関中、一関一高、日本大学生産工学部建築工学科、法政大学大学院建築科と進みました。
----イラストを描くようになった経緯は・・・?
法政大学大学院で都市史を学ぶようになって街並みの研究をしていたんですが、恩師が陣内秀信※1先生という方で、先生とタイのバンコクに調査に行った時に、街並みのスケッチを描いていたのが先生の眼に留まって、先生に、「今度、出版する本のイラストを描いてみないか?」と、声を掛けていただいたのが、イラストを描くようになった、きっかけですね。
----そうなんですか? 子供の時から、描いていたというわけではないのですか?
もともと絵描きやイラストレーターを目指していたわけではありません。絵も授業で描く程度でした。大学も建築でしたので、特に絵についての勉強をしたことはありません。



東京駅のイラスト




----どうして、建築の道を目指したんですか?
どうして建築の道に進んだのかも、今となってはよく覚えていませんね。(笑) ただ、美術の授業は好きでしたし、何かモノを創りたいという想いはありました。現実的に絵やイラストというよりは、建築の方面に進みました。きちんと職業として成り立っていますし、美術の要素も入っていますから。
----しっかりした高校生ですね。
ありがとうございます。(笑)
----いやいや、私も一高生でしたから・・・。一高生って公務員とか、学校の先生、銀行員とか堅い職業に進む人が多いですよね。
そうですか? 私の周囲にはそんな人、あまり、いませんでしたよ。(笑)
----学校の先生になった人は、多くありませんでした?
私は理系だったので、そういう人は、そんなにいませんでしたよ。
----そうですか、そういうものですかね・・・。あっ、話を元に戻しますね。それで、もう、イラストレーターになったんですか?
いきなり、陣内先生の本のイラストに採用されて、在学中に建て直したばかりの新しい講談社に打ち合わせで、連れていかれました。編集の方にも、「何だ、この学生は?」みたいな眼で見られましたね。(笑) そこで、先生からイタリアの資料を渡されました。私はタイのバンコクで先生の眼に留まったんですが、描く事になったのはイタリアの本で、しかも私は東京の都市史の研究・・・。(笑) ただ、絵ということでしたので・・・。イタリアの都市史の研究をされている先生からイタリアの写真をいただいて、私もささやかながら卒業旅行はイタリアでしたので、その時の経験を思い出しながらイメージを膨らませて、先生の文章に合わせてイラストを描きました。ただ、その時、締め切りという概念があまり無くて、打ち合わせはまだ初期の段階だったにもかかわらず、次の打ち合わせには何が何でも、間に合わせなくてはいけない、と思って、30カット描いていったんですね。ところが、まだ先生は原稿が出来ていなくて、原稿よりも絵の方が先に出来上がってしまったんですよ。(笑)
----それはまた、すごいですね。(笑)
一気に30カットという、まとまった量が上がってきたので、編集の方も、私の事を初めは何だか学生みたいに思っていましたが、「ほう、これは使えるな」ということになりまして・・・。最初、その本はイラストの部分が少し、何なら文章と写真、半々でもいいと編集の方は考えていたみたいですが、結果的にはオールイラストでしかも表紙まで、私の絵が採用されることになりました。知らなかったことが幸いして、まるまる、先生の文章と私の絵という本が出来上がりました。

築二百年の蔵



----これは面白い話です。
それで、在学中にイラストの多い本を描かせてもらうようになって・・・。と同時に、在学中の1999年に千住のこの蔵に引っ越してきました。ちょうど引っ越す時に、一関にいる父が癌になりました。
----ううん、そうですか・・・。
私は一人っ子だったんですね。当時、この蔵は築190年だったんですが、こんな古い建物に娘が引っ越して来るとは、どういうことだ、と。
----ははっ、確かにそうですね。
父は本当は一関から娘の様子を見に来たかったのに、入院しているので見に来れなかったんですよ。それで、引っ越しや修繕している様子とか、隣にいる人が絵に描いた下町という感じでおはぎとか差し入れてくれる様子を、父の癌が分かってから亡くなるまでの四か月間、110枚の絵手紙にして、毎日、一関にいる父に送りました。
----素晴らしい話です。
その時、絵手紙をまとめて描いたことと、先生にイラストを認められた事が、絵の道に入るきっかけになりましたね。父の死、絵を描くこと、千住に引っ越したことが、同時に1999年に起こりました。
----そうですか。
この蔵に引っ越してきたんですが、それまでは建築学視点で調査や研究の対象として、この蔵を見ていたんですが実体験で使うようになって、何かこの蔵を活用できないかと漠然と考えるようになったんです。それで、2000年の3月に卒業して、4月に先生の本が出て、5月にこの蔵で原画展を開きました。行き当たりばったりですけど。(笑)
----ははっ。
初めての個展の開催だったんですけど、思いがけず在学中の知り合いなどが、予想を上回ってちょくちょく来てくれたんですね。その人たちが、絵も面白がってくれるし、建物も面白がってくれる。世の中には、こういう人たちもいるんだなあと、手応えを感じたんです。それで、それからは、ほぼ一年のペースで個展を続けています。こうして、イラストレーターに、どんどんなっていきました。(笑)
----すごいというか、面白い話です。(笑) 仕事は結構、来たんですか?
そうですね。徐々に仕事が来るようになって・・・。つまり、一度も就職せずに、イラストの仕事を一人で独自にして14年になりました。すごいでしょう。一度も就職していないなんて(笑)。

----素晴らしいですね。(笑) 私はまた、どこか広告代理店にでも就職して、それ からイラストレーターになったのかな、と思っていました。
最初から、完全に一人で、誰にも教わらずに・・・。仕事の仕方すら分からなかったのが・・・。なんとか切り拓いてしまいましたね。(笑)

なかださんのアトリエ



----はあ、でも才能があるからですものね。才能がなかったら、仕事は来ませんから。
それと、建築出身なので、アーティストみたいに、自分の描きたいものを描く、というか、芸術を究めたいみたいな欲求が全然なくて・・・。クライアントの要望があって、設計して、家を建てるのと同じで、雑誌や新聞や個人でもいいんですけど、こういうものを描いてほしいという依頼があって、この媒体には、こんなタッチがいいとか、子供向けだったらもっと柔らかく描こうとか・・・。人に合わせて、その求められていることに最善を尽くすというのが結構好きというか・・・、建築家として学生時代から身に付いてきたことだったので、自己中心的に私の芸術はこれだ、というものは持ってませんね。
----素晴らしいですね。あっ、でも、建築家としての仕事、設計図みたいなものは、頼まれたりするんですか?
初期の頃は建築出身なので、設計とイラスト、両立できたらいいなと思っていたんですが、世の中、そううまくはいかず、どんどんイラストの方が多くなったので、今はほとんど建築をやっていませんけど、若い頃は何件か、ありましたね。最近だと、一関の実家の家と今、住んでいる千住にある私の家をリノベーションしましたね。
----ええ、これからの目標みたいなものは?
そうですね。一人で切り拓いてきた、というと聞こえがいいんですけど、行き当たりばったりのものを、一つ一つこなしてきたところがあるので、まさかイラストレーターになるとは思わなかったし、その後は文章を書く取材の仕事も、すごく増えて・・・。
----そうですよね。
こういうインタビューの仕事も、初めはこんな古い蔵に若い娘が引っ越してきて、絵を描いて、個展をやっているというので、面白くて雑誌やテレビの取材が来たんです。それから、段々に私がインタビューする側になりました。それは絵が全くなくて、文章だけの仕事もあるし、絵や文章半々の時もあります。原稿なんて書けるとは全く思っていなかったんですが、ただ最初は私がインタビューされる側だったので、こういう事を聞けばいいのかな、こういう風に進めたらいいのかな、ということが分かって、今は文章を書く仕事が増えてます。臨機応変に目の前にあるものをやってきて、まだ、この年になっても、別の切り口があるかもしれないと思って、もし何か機会があったら、ためらわずにチャレンジしてみたいと思っています。

個展の風景


----そうですか。
自分の仕事とかの目標ではないですけど、この蔵の立ち退きにあったことで・・・。古い建物が好きで、大学で都市史を学んでいたこともあって、古い建物がどんどん壊されていく・・・特に震災後、東北だけではなく東京でも建て替える事が多いんですけど、壊してしまったら、もう元には戻らないんですよね。そういった建物を建築的にリノベーションして、うまく活用したいな、という考えが自分がこの蔵の立ち退きにあうことで、すごく強く感じました。そういう活動が街のアイデンティティにも繋がると思うので、街の事はやっていきたいですね。
----ううん。
自分の絵画展というよりは、若い頃、右も左も分からず千住でイラストという知らない分野にチャレンジした時、千住の皆さんが助けてくれ、また応援してくれて、すごく環境がよかったんですね。なので、千住の街にも恩返ししたいと思っていますし、古い建物を活用するということを、今まで以上に一生懸命にやっていきたい、と思っています。
----そうですか。それでは最後に「きらり☆メッセージ」ということで、一関市の若い方々に、何かメッセージをお願いしたいのですが・・・。
チャンスがあったら、すごく大きなチャンスでなくても、小さいことでもいいので、面白がって躊躇せずにチャレンジしていけばいいと思います。例えば、自分がこうだと、この道を決めていたのに、違う道が来たっていいじゃない。みたいな・・・。(笑)
----なるほど、今の言葉を一関市へのメッセージにしたいと思います。今日はどうも、ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。


※1 日本の建築史家 専門は、イタリア建築・都市史。法政大学デザイン工学部教授、東京大学工学博士。































































2013年7月6日

[ライブ情報]MIST AI 小野寺愛子


一関市出身のMISTのAIこと、小野寺愛子さんの一関でのライブ情報です。

●7月13、14、15日
Vida Cafe一関店 (一関市上日照2番3号 TSUTAYA一関中央店内 TEL 0191-26-6301)
14時〜、16時〜
毎日2回ステージ

●8月16日
川崎花火大会
詳細は近日公開。

●9月14日
千厩よいち
詳細は近日公開です。

2013年5月27日

[インタビュー] 佐藤正樹さん


―今回は一関市出身のアニメーター佐藤正樹さんを紹介します。

主な経歴
「ドラゴンボール」作画監督
「スラムダンク」キャラクターデザイン、総作画監督
「白鯨伝説」総作画監督
「頭文字D」キャラクターデザイン、総作画監督
「キン肉マン2世」キャラクターデザイン、総作画監督
「北斗の拳」キャラクターデザイン、総作画監督
「エグザムライ戦国」キャラクターデザイン
「まじっく快斗」キャラクターデザイン


----今日はどうもよろしくお願いします。
よろしく、お願いします。不思議な感じがしますね。
----実は佐藤さんは、私の中学の後輩で、しかも、弟と同級生でした。 今日はそう言った点も含めて、一関市が佐藤さんに与えた影響などを聞いてみたいと思います。
お手柔らかに、お願いします。(笑)
----経歴が本当に素晴らしいです。日本を代表するアニメにほとんど携わっていますね。絵を描くのは子供の時から好きだったんですか?
はい、実は母が一関でJUN美容室を経営しておりまして、母は美容師で忙しくしていたので、一人で絵本を切り抜いたりして遊んでいたんですよ。キャラクターの輪郭に合わせて・・・。ハサミの使い方は上手くなりました。
----さすが美容師の息子ですね。(笑) 
そのうち、切り抜く本が無くなってきたのか、衝動的に絵を描き出したんですよ。もう、ほとんど無意識でしたね。
----そうですか
忘れられない思い出は、私は山目保育園だったんですが、保育園の先生から画材をプレゼントされたんです。もしかしたら、その当時から、絵は上手かったのかもしれません。(笑)
----それでは小学校に進級したら、もっと凄かったんじゃないですか?
はい、図工の時間に描く絵は先生が勝手に市や県のコンクールに出品しまして、いただいた賞状はぐるりと壁を一周しましたね。
----その当時から、才能の片りんは見せていたわけですね。
どうですかね。(笑) ただ、山目小学校の一、二年の時の担任、高橋恵子先生から私の両親に「正樹君は将来、絵の道へ進めてください」という、話があったそうです。
----それが将来を決めたわけですか?
まだ小さかったので将来のことはあまり考えていませんでした。実は私は絵の道には、それほど進みたくなかったんですよ。(笑)
----これは面白い話ですね。そのあたりの事を聞いてみたいです。
中学時代は体操部で絵は授業の時にしか、描きませんでした。
----実は、山目中学の佐藤さんの同級生が私の弟で、「兄貴、俺のクラスに凄い絵を描くやつがいる」と、言われた事がありまして、それが佐藤さんだったんですね。
ははっ、祐司さんですね。ありがとうございます。でも、本当に授業の時に描く絵だけで、漫画などは描かなかったんですよ。花泉高校に入って美術部だったんですが、いわゆる帰宅部というやつで・・・。(笑) 特撮番組が大好きで、仮面ライダーとか円谷作品に、はまってましたよ。
----それでは、本当は特撮の分野に進みたかったと?
ええ、それを決定させるような事が、高校の文化祭で起きまして・・・。私の父が当時最高級のソニーのベータカメラとF11のデッキを手に入れたんです。
----佐藤さんのお父さんというと・・・
珍々亭出前センターという、あの時代には珍しいデリバリーシステムを始めた男なんです。
----ほう、これは凄い。
当時の年商は億を超えていました。海外旅行に行くのが趣味で、お金は持ってましたね。その、父がビデオカメラを買ったんですが、宝の持ちぐされなわけですよ。(笑) それで、私がそのカメラを使って特撮ヒーロー物を撮って、文化祭に出展したんです。トリック撮影まで駆使しましたので、話題を集めました。一関テレビに出た事もあるんですよ。
----ますます、アニメから遠ざかっていきますね。(笑)
それで、高校の三年になって、将来の進路を決めなければならなく、なったんですよ。就職はまだ、したくないし・・・。それで、叔母に相談したんです。叔母は当時、「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーの西崎義展の秘書をしていました。その叔母が「映像の仕事をしたいんだったら、美大へ行け」と、言うんですよ。美大へ進みたかったんですが、今度は学力がなくて・・・。(笑) それで、私の学力で入れそうなところは、東京デザイナー学院のアニメーション科しか、なかったんですよ。
----ここで、アニメーションが出てきましたね。
ところが、今度は東京デザイナー学院の卒業間際、やっぱりアニメーターに、なりたくなかったんですよ。(笑)
----よくよく、アニメーターが嫌いなんですね。
ははっ、それでも何人かの同級生に私の個人画集を同人誌で出さないか、と言われたりもしました。原作の良さを何故アニメで表現できないのか、という不満も私の中にはありました。そのうち同級生の西本君に「お前はジュニオに行け!お前はジュニオの考え方に合っている」と言われたんです。それで、ジュニオに行くことにしました。
----どうして、ジュニオに決めたんですか?
当時、前田実さんが「タッチ」の絵をブラッシュアップして、見事な出来上がりになっていましたし、スタジオ・ジュニオ※1が日本最高のクリエーター集団だと、西本君は分かっていたようですね。




----ジュニオに入社してからの事を聞きたいですね。
最初のうちは、普通に動画を描いていたんです。そのうち、原画の試験があって、それを受ける事にしました。
----動画は原画と原画の間の動きを繋ぐものですから、さほど絵心がなくても出来ますが、原画となると、白紙に描くわけですから、一気にハードルが上がりますよね。試験内容をお聞かせねがえますか?
はい。試験は10秒間、好きなキャラクターに好きな演技をさせろ、というものでした。一週間の期間があったんですが、私は仮面ライダーと戦闘員が格闘する、という演技を描きました。試験官の前田さんが私の作画を見て笑ってました。(笑) 一応、試験には合格しました。合格したのは、3人でしたね。
----原画になったのは、ジュニオに入社してから、何年ぐらい経ってですか?
1年半ぐらいですか・・・。
----1年半でジュニオの原画ですか。まさに、天才ですね。
いえいえ、たまたまで・・・。(笑) 最初の原画はひらけポンキッキの中で放映されていた「世界名作劇場」でした。そのうち、前田さんから「ドラゴンボール」のチームに入らないか、と誘われまして、前田さんのお手伝いをするようになったんですよ。
----「ドラゴンボール」での佐藤さんの作画は非常に好評で、たくさんのファンを作りましたよね。たしか、アニメ、「時をかける少女」「新世界より」の作画監督の久保田誓さんも、「ドラゴンボール」の佐藤さんの作画を見て、アニメーターになったとか・・・。
どうですかね、彼はもともと描ける人ですから・・・(笑)。
----「ドラゴンボール」の後は、「スラムダンク」のキャラクターデザイン、総作画監督を皮切りに快進撃ですね。
ありがとうございます。ファンの人から支持を受けまして・・・。
----特に思い出の作品はありますか?
そうですね。NHKの天才テレビ君の中で放映された「恐竜惑星※2」ですかね。
----総作画監督をされたんですよね。
最初、社長から話があった時は断ったんですがね。
----どうして、受けられたんですか?
よく、言いますね。(笑)
----えっ?
マッキーさんが、制作で原案だったからですよ。
----はい、あの時はお世話になりました。(笑) 私は制作と企画でジュニオに入社しましたが、作画では、とても入れませんでしたね。(笑) 思い出話を言いますと、作画スケジュールが非常に切羽つまっておりまして、10日間ほどで、500カットあまりを作画修正しなくてはならない状況になり、ました。それも恐竜もの。(笑) ジュニオといえども、この仕事ができるのは佐藤さんしかいませんでした。佐藤さんの作画修正している姿を見て、膝が抜けそうになりました。手の動きが速すぎて見えないんですよ。それでいながら、次々に見事な作監修正が仕上がっていく。その時、思いましたね。「ああ、この男を敵に回さなくてよかったな」と。(笑)
あの時のモチベーションが維持できたのは、マッキーさんが制作だったからですよ。感謝しています。
----そう言ってもらえると、助かります。しかも、ジュニオにはもう一人、一関出身者がいました。一関二高出身の女性※3で、一関出身者が三人ジュニオに集まるという、異例の事態でした。実は私がこの「一関きらり☆メッセージ」の企画を考えたのも、ここからです。
----それでは、ジュニオ時代の何か面白いエピソードをいくつかお願いします。ファンサービスということで・・・。
そうですか、それでは「ドラゴンボールZ」の話でも・・・。「ドラゴンボールZ」のアイキャッチを前田さんにムチャブリされまして、ある日の夕方に「明日の昼までにあげろ!」と言われたんですが、絵コンテの内容に尺が合わなかったので、苦労したんですよ。それなのに、放映を見た前田さんが、私に電話を掛けてきて、「正樹! 何だ、あれは!」と激怒されました。でも、結局、このアイキャッチが「ドラゴンボールZ」放映中、数年にわたって、一番多く使われました。最近びっくりしたのは、このアイキャッチの絵のカードダスがまんだらけで買い取り額、百万円だったことですね。(笑)
----すごい師弟関係です。(笑) 他には、ありますか?
TV版「スラムダンク」、二期目のオープニングに実は三井寿が出ていないんです。出来上がりのフィルムを見た西沢監督※4が慌てて、私のところにやってきて、「サトちゃん、サトちゃん、三井がいないよ」「ええ、いませんでしたね」「絵コンテの時に、どうして、言ってくれなかったの?」「西沢さんが演出で三井を出さないのかと思いまして」・・・・・・実は、西沢監督が単純に忘れていただけでした。(笑) よかったら、見てくださいね。その罪滅ぼしで、ザードさんの「マイフレンド」のエンディングに出てくる三井寿には力を入れて描きました。



----現在はどちらのスタジオに所属されているんですか?
中野にあるトムス※5というアニメ会社です。
----私は以前、中野でその会社を見た事があるんですが、地上七階建てほどのインテリジェンスビルが二棟ほどあって、一棟はトムス、もう一棟はトムス・エンターテイメントとなっていました。
私はトムス・エンターテイメントに所属しています。
----トムスで佐藤さんは「劇場 北斗の拳」のキャラクターデザインと総作画監督をされていますが、何かエピソードはありますか?
初めから私がキャラクターデザインというわけではありませんでした。「劇場 北斗の拳」のキャラクターデザインは、私以前に五人いたんですよ。ただ、誰も原哲夫先生の気に入らなくて、原先生は困っていました。「劇場 北斗の拳」の女性の方のキャラクターデザインは北条司先生で、北条先生が御弟子さんの井上雄彦先生に相談したところ、井上先生が「スラムダンクでキャラクターデザインを担当した佐藤さんが非常に上手い絵を描きますよ」と、私を推薦してくれたので、私にキャラクターデザインが決まったという経緯があります。
---少年ジャンプの有名漫画家のお墨付きというわけですね。
そのせいか、わかりませんが、少年ジャンプの編集長の堀江さん※6との折衝も私が担当することになり、プロデューサーみたいなこともやりました。



----それでは、一関市の若い人たちに、メッセージをお願いします。
ええ、ダフトパンクのミュージックビデオで「ワンモアタイム」という作品を作画した時のことです。キャラクターデザインは松本零士先生でした。私が挨拶に行った際、松本先生は自ら握手を求めてこられまして、力強く「うんっ!んっ!」とおっしゃられました。その瞬間、松本先生の言葉がテレパシーのように私の心に響いたんですよ。「少年よ! よく、ここまで、たどり着いたな」と。
----まるで、「銀河鉄道999」のセリフのようですね。
ええ、その松本先生がよく色紙に書かれる言葉が「今日の君より、明日の君はもっと強い。そう信じて、くじけるな」という言葉です。これを一関市の人たちへのメッセージとしたいです。
----松本先生らしい、素晴らしい言葉ですね。
はい、自分を高める程、わくわくする出会いがあると思うんです。何かを貫いている人はぶれていません。一関の若い人たちには是非、自己肯定感を持ってほしいですね。

----佐藤さんは松本先生以外にも、著名な漫画家の信頼が厚いですよね。ゆでたまご先生とニューヨークに遊びに行かれたり、原哲男先生に私のところへ来ないか、と言われたり、しげの秀一先生は自身の漫画のアニメ化は佐藤正樹がキャラクターデザインでないと認めない、とか。
ええ、まあ、いろいろ・・・。(笑)
----そのあたりのことは、一関市で講演していただけますか?
はい、喜んで・・・。
私は今まで、ドラマ、アニメ、特撮、音楽、小説など、多くのエンターテイメントと出会い、その出会いが私の意識を変えていきました。今は純粋に私が今まで受け取ってきたものを、多くの人にお返ししたいという気持ちでいっぱいです。
----では、最後に現在公開中の作品を教えてください。
「頭文字D 5」のキャラクターデザイン、これはスカパーで放映中です。後はパチンコ、パチスロの「北斗の拳」の全アニメーションの作画です。余談ですが、映画「テルマエロマエ」で上戸彩さんの部屋に貼られている「北斗の拳」のポスターの線画は私が描きました。

----今日はどうもありがとうございました.
いえ、こちらこそ。


※1 当時のスタジオ・ジュニオは東京芸術大学出身の香西隆男を代表として、「ドラゴンボール」「タッチ」「アンパンマン」の総作画監督、前田実、「ドラゴンボール」の総監督、岡崎稔、「アンパンマン」の総監督、永丘昭典「ゴッドマーズ」の総監督、今沢哲男、「一休さん」の作画監督、我妻宏、「エヴァンゲリオンQ」の作画監督、井上俊之など、錚々たるメンバーだった。
※2 「恐竜惑星」はロングランを重ね、主人公の萌ちゃんが、現在の「萌」という言葉の語源となりました。
※3 この女性は結婚して、現在はイギリスに住んでいます。
※4 西沢信孝、「マジンガーZ対暗黒大将軍」の監督
※5 元の名は東京ムービー新社、東映動画と並んで、日本を代表するアニメ会社

※6 少年ジャンプのアンケートシステムを考案した編集者








本年度のカンヌ映画祭では、是枝監督が監督賞を受賞した。
カンヌ映画祭で世界で初めてアニメーション作品が上映されたのは、ダフトパンクのミュージックビデオ「インターステラ5555」という作品である。キャラクター原案の松本零士氏は、カンヌ映画祭に招待され、この時初めて、海を越えた。
キャラクターデザインと作画は佐藤正樹。

佐藤正樹・・・日本が世界に誇るアニメーターである。

















2013年5月3日

[紹介]マッキー

これから、私、マッキーが一関出身で活躍している方々に、インタビューして、皆様にお伝えしていきたいと思います。
ここで、簡単に私の紹介を・・・。
小中高と一関で過ごし、趣味はアニメとマジックとミステリー。
詳しいことは、このブログを通して、次第に分かっていくことと思います。
インタビューしている方々と私とは微妙に交わっている部分がありますので。

それでは、楽しみにしてください。