2013年7月7日

[インタビュー]なかだえりさん




北千住の街
今回は一関市出身で、現在は足立区千住にある、約200年前に建てられた蔵をアトリエにして、イラストや執筆活動をされている、なかだえりさんを紹介します。
                                      
                 



[主な作品]
・とらえどころのない曖昧な輪郭(星雲社)
・東京さんぽるぽ(集英社)
・奇跡の一本松~大津波をのりこえて(汐文社)
・駅弁女子 日本全国旅して食べて(淡交社)


----どうも、初めまして。よろしくお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いします。
----初めになかださんの経歴を訊きたいのですが・・・。
はい、私は一関市の真柴に生まれ、南小、一関中、一関一高、日本大学生産工学部建築工学科、法政大学大学院建築科と進みました。
----イラストを描くようになった経緯は・・・?
法政大学大学院で都市史を学ぶようになって街並みの研究をしていたんですが、恩師が陣内秀信※1先生という方で、先生とタイのバンコクに調査に行った時に、街並みのスケッチを描いていたのが先生の眼に留まって、先生に、「今度、出版する本のイラストを描いてみないか?」と、声を掛けていただいたのが、イラストを描くようになった、きっかけですね。
----そうなんですか? 子供の時から、描いていたというわけではないのですか?
もともと絵描きやイラストレーターを目指していたわけではありません。絵も授業で描く程度でした。大学も建築でしたので、特に絵についての勉強をしたことはありません。



東京駅のイラスト




----どうして、建築の道を目指したんですか?
どうして建築の道に進んだのかも、今となってはよく覚えていませんね。(笑) ただ、美術の授業は好きでしたし、何かモノを創りたいという想いはありました。現実的に絵やイラストというよりは、建築の方面に進みました。きちんと職業として成り立っていますし、美術の要素も入っていますから。
----しっかりした高校生ですね。
ありがとうございます。(笑)
----いやいや、私も一高生でしたから・・・。一高生って公務員とか、学校の先生、銀行員とか堅い職業に進む人が多いですよね。
そうですか? 私の周囲にはそんな人、あまり、いませんでしたよ。(笑)
----学校の先生になった人は、多くありませんでした?
私は理系だったので、そういう人は、そんなにいませんでしたよ。
----そうですか、そういうものですかね・・・。あっ、話を元に戻しますね。それで、もう、イラストレーターになったんですか?
いきなり、陣内先生の本のイラストに採用されて、在学中に建て直したばかりの新しい講談社に打ち合わせで、連れていかれました。編集の方にも、「何だ、この学生は?」みたいな眼で見られましたね。(笑) そこで、先生からイタリアの資料を渡されました。私はタイのバンコクで先生の眼に留まったんですが、描く事になったのはイタリアの本で、しかも私は東京の都市史の研究・・・。(笑) ただ、絵ということでしたので・・・。イタリアの都市史の研究をされている先生からイタリアの写真をいただいて、私もささやかながら卒業旅行はイタリアでしたので、その時の経験を思い出しながらイメージを膨らませて、先生の文章に合わせてイラストを描きました。ただ、その時、締め切りという概念があまり無くて、打ち合わせはまだ初期の段階だったにもかかわらず、次の打ち合わせには何が何でも、間に合わせなくてはいけない、と思って、30カット描いていったんですね。ところが、まだ先生は原稿が出来ていなくて、原稿よりも絵の方が先に出来上がってしまったんですよ。(笑)
----それはまた、すごいですね。(笑)
一気に30カットという、まとまった量が上がってきたので、編集の方も、私の事を初めは何だか学生みたいに思っていましたが、「ほう、これは使えるな」ということになりまして・・・。最初、その本はイラストの部分が少し、何なら文章と写真、半々でもいいと編集の方は考えていたみたいですが、結果的にはオールイラストでしかも表紙まで、私の絵が採用されることになりました。知らなかったことが幸いして、まるまる、先生の文章と私の絵という本が出来上がりました。

築二百年の蔵



----これは面白い話です。
それで、在学中にイラストの多い本を描かせてもらうようになって・・・。と同時に、在学中の1999年に千住のこの蔵に引っ越してきました。ちょうど引っ越す時に、一関にいる父が癌になりました。
----ううん、そうですか・・・。
私は一人っ子だったんですね。当時、この蔵は築190年だったんですが、こんな古い建物に娘が引っ越して来るとは、どういうことだ、と。
----ははっ、確かにそうですね。
父は本当は一関から娘の様子を見に来たかったのに、入院しているので見に来れなかったんですよ。それで、引っ越しや修繕している様子とか、隣にいる人が絵に描いた下町という感じでおはぎとか差し入れてくれる様子を、父の癌が分かってから亡くなるまでの四か月間、110枚の絵手紙にして、毎日、一関にいる父に送りました。
----素晴らしい話です。
その時、絵手紙をまとめて描いたことと、先生にイラストを認められた事が、絵の道に入るきっかけになりましたね。父の死、絵を描くこと、千住に引っ越したことが、同時に1999年に起こりました。
----そうですか。
この蔵に引っ越してきたんですが、それまでは建築学視点で調査や研究の対象として、この蔵を見ていたんですが実体験で使うようになって、何かこの蔵を活用できないかと漠然と考えるようになったんです。それで、2000年の3月に卒業して、4月に先生の本が出て、5月にこの蔵で原画展を開きました。行き当たりばったりですけど。(笑)
----ははっ。
初めての個展の開催だったんですけど、思いがけず在学中の知り合いなどが、予想を上回ってちょくちょく来てくれたんですね。その人たちが、絵も面白がってくれるし、建物も面白がってくれる。世の中には、こういう人たちもいるんだなあと、手応えを感じたんです。それで、それからは、ほぼ一年のペースで個展を続けています。こうして、イラストレーターに、どんどんなっていきました。(笑)
----すごいというか、面白い話です。(笑) 仕事は結構、来たんですか?
そうですね。徐々に仕事が来るようになって・・・。つまり、一度も就職せずに、イラストの仕事を一人で独自にして14年になりました。すごいでしょう。一度も就職していないなんて(笑)。

----素晴らしいですね。(笑) 私はまた、どこか広告代理店にでも就職して、それ からイラストレーターになったのかな、と思っていました。
最初から、完全に一人で、誰にも教わらずに・・・。仕事の仕方すら分からなかったのが・・・。なんとか切り拓いてしまいましたね。(笑)

なかださんのアトリエ



----はあ、でも才能があるからですものね。才能がなかったら、仕事は来ませんから。
それと、建築出身なので、アーティストみたいに、自分の描きたいものを描く、というか、芸術を究めたいみたいな欲求が全然なくて・・・。クライアントの要望があって、設計して、家を建てるのと同じで、雑誌や新聞や個人でもいいんですけど、こういうものを描いてほしいという依頼があって、この媒体には、こんなタッチがいいとか、子供向けだったらもっと柔らかく描こうとか・・・。人に合わせて、その求められていることに最善を尽くすというのが結構好きというか・・・、建築家として学生時代から身に付いてきたことだったので、自己中心的に私の芸術はこれだ、というものは持ってませんね。
----素晴らしいですね。あっ、でも、建築家としての仕事、設計図みたいなものは、頼まれたりするんですか?
初期の頃は建築出身なので、設計とイラスト、両立できたらいいなと思っていたんですが、世の中、そううまくはいかず、どんどんイラストの方が多くなったので、今はほとんど建築をやっていませんけど、若い頃は何件か、ありましたね。最近だと、一関の実家の家と今、住んでいる千住にある私の家をリノベーションしましたね。
----ええ、これからの目標みたいなものは?
そうですね。一人で切り拓いてきた、というと聞こえがいいんですけど、行き当たりばったりのものを、一つ一つこなしてきたところがあるので、まさかイラストレーターになるとは思わなかったし、その後は文章を書く取材の仕事も、すごく増えて・・・。
----そうですよね。
こういうインタビューの仕事も、初めはこんな古い蔵に若い娘が引っ越してきて、絵を描いて、個展をやっているというので、面白くて雑誌やテレビの取材が来たんです。それから、段々に私がインタビューする側になりました。それは絵が全くなくて、文章だけの仕事もあるし、絵や文章半々の時もあります。原稿なんて書けるとは全く思っていなかったんですが、ただ最初は私がインタビューされる側だったので、こういう事を聞けばいいのかな、こういう風に進めたらいいのかな、ということが分かって、今は文章を書く仕事が増えてます。臨機応変に目の前にあるものをやってきて、まだ、この年になっても、別の切り口があるかもしれないと思って、もし何か機会があったら、ためらわずにチャレンジしてみたいと思っています。

個展の風景


----そうですか。
自分の仕事とかの目標ではないですけど、この蔵の立ち退きにあったことで・・・。古い建物が好きで、大学で都市史を学んでいたこともあって、古い建物がどんどん壊されていく・・・特に震災後、東北だけではなく東京でも建て替える事が多いんですけど、壊してしまったら、もう元には戻らないんですよね。そういった建物を建築的にリノベーションして、うまく活用したいな、という考えが自分がこの蔵の立ち退きにあうことで、すごく強く感じました。そういう活動が街のアイデンティティにも繋がると思うので、街の事はやっていきたいですね。
----ううん。
自分の絵画展というよりは、若い頃、右も左も分からず千住でイラストという知らない分野にチャレンジした時、千住の皆さんが助けてくれ、また応援してくれて、すごく環境がよかったんですね。なので、千住の街にも恩返ししたいと思っていますし、古い建物を活用するということを、今まで以上に一生懸命にやっていきたい、と思っています。
----そうですか。それでは最後に「きらり☆メッセージ」ということで、一関市の若い方々に、何かメッセージをお願いしたいのですが・・・。
チャンスがあったら、すごく大きなチャンスでなくても、小さいことでもいいので、面白がって躊躇せずにチャレンジしていけばいいと思います。例えば、自分がこうだと、この道を決めていたのに、違う道が来たっていいじゃない。みたいな・・・。(笑)
----なるほど、今の言葉を一関市へのメッセージにしたいと思います。今日はどうも、ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。


※1 日本の建築史家 専門は、イタリア建築・都市史。法政大学デザイン工学部教授、東京大学工学博士。































































2013年7月6日

[ライブ情報]MIST AI 小野寺愛子


一関市出身のMISTのAIこと、小野寺愛子さんの一関でのライブ情報です。

●7月13、14、15日
Vida Cafe一関店 (一関市上日照2番3号 TSUTAYA一関中央店内 TEL 0191-26-6301)
14時〜、16時〜
毎日2回ステージ

●8月16日
川崎花火大会
詳細は近日公開。

●9月14日
千厩よいち
詳細は近日公開です。

2013年5月27日

[インタビュー] 佐藤正樹さん


―今回は一関市出身のアニメーター佐藤正樹さんを紹介します。

主な経歴
「ドラゴンボール」作画監督
「スラムダンク」キャラクターデザイン、総作画監督
「白鯨伝説」総作画監督
「頭文字D」キャラクターデザイン、総作画監督
「キン肉マン2世」キャラクターデザイン、総作画監督
「北斗の拳」キャラクターデザイン、総作画監督
「エグザムライ戦国」キャラクターデザイン
「まじっく快斗」キャラクターデザイン


----今日はどうもよろしくお願いします。
よろしく、お願いします。不思議な感じがしますね。
----実は佐藤さんは、私の中学の後輩で、しかも、弟と同級生でした。 今日はそう言った点も含めて、一関市が佐藤さんに与えた影響などを聞いてみたいと思います。
お手柔らかに、お願いします。(笑)
----経歴が本当に素晴らしいです。日本を代表するアニメにほとんど携わっていますね。絵を描くのは子供の時から好きだったんですか?
はい、実は母が一関でJUN美容室を経営しておりまして、母は美容師で忙しくしていたので、一人で絵本を切り抜いたりして遊んでいたんですよ。キャラクターの輪郭に合わせて・・・。ハサミの使い方は上手くなりました。
----さすが美容師の息子ですね。(笑) 
そのうち、切り抜く本が無くなってきたのか、衝動的に絵を描き出したんですよ。もう、ほとんど無意識でしたね。
----そうですか
忘れられない思い出は、私は山目保育園だったんですが、保育園の先生から画材をプレゼントされたんです。もしかしたら、その当時から、絵は上手かったのかもしれません。(笑)
----それでは小学校に進級したら、もっと凄かったんじゃないですか?
はい、図工の時間に描く絵は先生が勝手に市や県のコンクールに出品しまして、いただいた賞状はぐるりと壁を一周しましたね。
----その当時から、才能の片りんは見せていたわけですね。
どうですかね。(笑) ただ、山目小学校の一、二年の時の担任、高橋恵子先生から私の両親に「正樹君は将来、絵の道へ進めてください」という、話があったそうです。
----それが将来を決めたわけですか?
まだ小さかったので将来のことはあまり考えていませんでした。実は私は絵の道には、それほど進みたくなかったんですよ。(笑)
----これは面白い話ですね。そのあたりの事を聞いてみたいです。
中学時代は体操部で絵は授業の時にしか、描きませんでした。
----実は、山目中学の佐藤さんの同級生が私の弟で、「兄貴、俺のクラスに凄い絵を描くやつがいる」と、言われた事がありまして、それが佐藤さんだったんですね。
ははっ、祐司さんですね。ありがとうございます。でも、本当に授業の時に描く絵だけで、漫画などは描かなかったんですよ。花泉高校に入って美術部だったんですが、いわゆる帰宅部というやつで・・・。(笑) 特撮番組が大好きで、仮面ライダーとか円谷作品に、はまってましたよ。
----それでは、本当は特撮の分野に進みたかったと?
ええ、それを決定させるような事が、高校の文化祭で起きまして・・・。私の父が当時最高級のソニーのベータカメラとF11のデッキを手に入れたんです。
----佐藤さんのお父さんというと・・・
珍々亭出前センターという、あの時代には珍しいデリバリーシステムを始めた男なんです。
----ほう、これは凄い。
当時の年商は億を超えていました。海外旅行に行くのが趣味で、お金は持ってましたね。その、父がビデオカメラを買ったんですが、宝の持ちぐされなわけですよ。(笑) それで、私がそのカメラを使って特撮ヒーロー物を撮って、文化祭に出展したんです。トリック撮影まで駆使しましたので、話題を集めました。一関テレビに出た事もあるんですよ。
----ますます、アニメから遠ざかっていきますね。(笑)
それで、高校の三年になって、将来の進路を決めなければならなく、なったんですよ。就職はまだ、したくないし・・・。それで、叔母に相談したんです。叔母は当時、「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーの西崎義展の秘書をしていました。その叔母が「映像の仕事をしたいんだったら、美大へ行け」と、言うんですよ。美大へ進みたかったんですが、今度は学力がなくて・・・。(笑) それで、私の学力で入れそうなところは、東京デザイナー学院のアニメーション科しか、なかったんですよ。
----ここで、アニメーションが出てきましたね。
ところが、今度は東京デザイナー学院の卒業間際、やっぱりアニメーターに、なりたくなかったんですよ。(笑)
----よくよく、アニメーターが嫌いなんですね。
ははっ、それでも何人かの同級生に私の個人画集を同人誌で出さないか、と言われたりもしました。原作の良さを何故アニメで表現できないのか、という不満も私の中にはありました。そのうち同級生の西本君に「お前はジュニオに行け!お前はジュニオの考え方に合っている」と言われたんです。それで、ジュニオに行くことにしました。
----どうして、ジュニオに決めたんですか?
当時、前田実さんが「タッチ」の絵をブラッシュアップして、見事な出来上がりになっていましたし、スタジオ・ジュニオ※1が日本最高のクリエーター集団だと、西本君は分かっていたようですね。




----ジュニオに入社してからの事を聞きたいですね。
最初のうちは、普通に動画を描いていたんです。そのうち、原画の試験があって、それを受ける事にしました。
----動画は原画と原画の間の動きを繋ぐものですから、さほど絵心がなくても出来ますが、原画となると、白紙に描くわけですから、一気にハードルが上がりますよね。試験内容をお聞かせねがえますか?
はい。試験は10秒間、好きなキャラクターに好きな演技をさせろ、というものでした。一週間の期間があったんですが、私は仮面ライダーと戦闘員が格闘する、という演技を描きました。試験官の前田さんが私の作画を見て笑ってました。(笑) 一応、試験には合格しました。合格したのは、3人でしたね。
----原画になったのは、ジュニオに入社してから、何年ぐらい経ってですか?
1年半ぐらいですか・・・。
----1年半でジュニオの原画ですか。まさに、天才ですね。
いえいえ、たまたまで・・・。(笑) 最初の原画はひらけポンキッキの中で放映されていた「世界名作劇場」でした。そのうち、前田さんから「ドラゴンボール」のチームに入らないか、と誘われまして、前田さんのお手伝いをするようになったんですよ。
----「ドラゴンボール」での佐藤さんの作画は非常に好評で、たくさんのファンを作りましたよね。たしか、アニメ、「時をかける少女」「新世界より」の作画監督の久保田誓さんも、「ドラゴンボール」の佐藤さんの作画を見て、アニメーターになったとか・・・。
どうですかね、彼はもともと描ける人ですから・・・(笑)。
----「ドラゴンボール」の後は、「スラムダンク」のキャラクターデザイン、総作画監督を皮切りに快進撃ですね。
ありがとうございます。ファンの人から支持を受けまして・・・。
----特に思い出の作品はありますか?
そうですね。NHKの天才テレビ君の中で放映された「恐竜惑星※2」ですかね。
----総作画監督をされたんですよね。
最初、社長から話があった時は断ったんですがね。
----どうして、受けられたんですか?
よく、言いますね。(笑)
----えっ?
マッキーさんが、制作で原案だったからですよ。
----はい、あの時はお世話になりました。(笑) 私は制作と企画でジュニオに入社しましたが、作画では、とても入れませんでしたね。(笑) 思い出話を言いますと、作画スケジュールが非常に切羽つまっておりまして、10日間ほどで、500カットあまりを作画修正しなくてはならない状況になり、ました。それも恐竜もの。(笑) ジュニオといえども、この仕事ができるのは佐藤さんしかいませんでした。佐藤さんの作画修正している姿を見て、膝が抜けそうになりました。手の動きが速すぎて見えないんですよ。それでいながら、次々に見事な作監修正が仕上がっていく。その時、思いましたね。「ああ、この男を敵に回さなくてよかったな」と。(笑)
あの時のモチベーションが維持できたのは、マッキーさんが制作だったからですよ。感謝しています。
----そう言ってもらえると、助かります。しかも、ジュニオにはもう一人、一関出身者がいました。一関二高出身の女性※3で、一関出身者が三人ジュニオに集まるという、異例の事態でした。実は私がこの「一関きらり☆メッセージ」の企画を考えたのも、ここからです。
----それでは、ジュニオ時代の何か面白いエピソードをいくつかお願いします。ファンサービスということで・・・。
そうですか、それでは「ドラゴンボールZ」の話でも・・・。「ドラゴンボールZ」のアイキャッチを前田さんにムチャブリされまして、ある日の夕方に「明日の昼までにあげろ!」と言われたんですが、絵コンテの内容に尺が合わなかったので、苦労したんですよ。それなのに、放映を見た前田さんが、私に電話を掛けてきて、「正樹! 何だ、あれは!」と激怒されました。でも、結局、このアイキャッチが「ドラゴンボールZ」放映中、数年にわたって、一番多く使われました。最近びっくりしたのは、このアイキャッチの絵のカードダスがまんだらけで買い取り額、百万円だったことですね。(笑)
----すごい師弟関係です。(笑) 他には、ありますか?
TV版「スラムダンク」、二期目のオープニングに実は三井寿が出ていないんです。出来上がりのフィルムを見た西沢監督※4が慌てて、私のところにやってきて、「サトちゃん、サトちゃん、三井がいないよ」「ええ、いませんでしたね」「絵コンテの時に、どうして、言ってくれなかったの?」「西沢さんが演出で三井を出さないのかと思いまして」・・・・・・実は、西沢監督が単純に忘れていただけでした。(笑) よかったら、見てくださいね。その罪滅ぼしで、ザードさんの「マイフレンド」のエンディングに出てくる三井寿には力を入れて描きました。



----現在はどちらのスタジオに所属されているんですか?
中野にあるトムス※5というアニメ会社です。
----私は以前、中野でその会社を見た事があるんですが、地上七階建てほどのインテリジェンスビルが二棟ほどあって、一棟はトムス、もう一棟はトムス・エンターテイメントとなっていました。
私はトムス・エンターテイメントに所属しています。
----トムスで佐藤さんは「劇場 北斗の拳」のキャラクターデザインと総作画監督をされていますが、何かエピソードはありますか?
初めから私がキャラクターデザインというわけではありませんでした。「劇場 北斗の拳」のキャラクターデザインは、私以前に五人いたんですよ。ただ、誰も原哲夫先生の気に入らなくて、原先生は困っていました。「劇場 北斗の拳」の女性の方のキャラクターデザインは北条司先生で、北条先生が御弟子さんの井上雄彦先生に相談したところ、井上先生が「スラムダンクでキャラクターデザインを担当した佐藤さんが非常に上手い絵を描きますよ」と、私を推薦してくれたので、私にキャラクターデザインが決まったという経緯があります。
---少年ジャンプの有名漫画家のお墨付きというわけですね。
そのせいか、わかりませんが、少年ジャンプの編集長の堀江さん※6との折衝も私が担当することになり、プロデューサーみたいなこともやりました。



----それでは、一関市の若い人たちに、メッセージをお願いします。
ええ、ダフトパンクのミュージックビデオで「ワンモアタイム」という作品を作画した時のことです。キャラクターデザインは松本零士先生でした。私が挨拶に行った際、松本先生は自ら握手を求めてこられまして、力強く「うんっ!んっ!」とおっしゃられました。その瞬間、松本先生の言葉がテレパシーのように私の心に響いたんですよ。「少年よ! よく、ここまで、たどり着いたな」と。
----まるで、「銀河鉄道999」のセリフのようですね。
ええ、その松本先生がよく色紙に書かれる言葉が「今日の君より、明日の君はもっと強い。そう信じて、くじけるな」という言葉です。これを一関市の人たちへのメッセージとしたいです。
----松本先生らしい、素晴らしい言葉ですね。
はい、自分を高める程、わくわくする出会いがあると思うんです。何かを貫いている人はぶれていません。一関の若い人たちには是非、自己肯定感を持ってほしいですね。

----佐藤さんは松本先生以外にも、著名な漫画家の信頼が厚いですよね。ゆでたまご先生とニューヨークに遊びに行かれたり、原哲男先生に私のところへ来ないか、と言われたり、しげの秀一先生は自身の漫画のアニメ化は佐藤正樹がキャラクターデザインでないと認めない、とか。
ええ、まあ、いろいろ・・・。(笑)
----そのあたりのことは、一関市で講演していただけますか?
はい、喜んで・・・。
私は今まで、ドラマ、アニメ、特撮、音楽、小説など、多くのエンターテイメントと出会い、その出会いが私の意識を変えていきました。今は純粋に私が今まで受け取ってきたものを、多くの人にお返ししたいという気持ちでいっぱいです。
----では、最後に現在公開中の作品を教えてください。
「頭文字D 5」のキャラクターデザイン、これはスカパーで放映中です。後はパチンコ、パチスロの「北斗の拳」の全アニメーションの作画です。余談ですが、映画「テルマエロマエ」で上戸彩さんの部屋に貼られている「北斗の拳」のポスターの線画は私が描きました。

----今日はどうもありがとうございました.
いえ、こちらこそ。


※1 当時のスタジオ・ジュニオは東京芸術大学出身の香西隆男を代表として、「ドラゴンボール」「タッチ」「アンパンマン」の総作画監督、前田実、「ドラゴンボール」の総監督、岡崎稔、「アンパンマン」の総監督、永丘昭典「ゴッドマーズ」の総監督、今沢哲男、「一休さん」の作画監督、我妻宏、「エヴァンゲリオンQ」の作画監督、井上俊之など、錚々たるメンバーだった。
※2 「恐竜惑星」はロングランを重ね、主人公の萌ちゃんが、現在の「萌」という言葉の語源となりました。
※3 この女性は結婚して、現在はイギリスに住んでいます。
※4 西沢信孝、「マジンガーZ対暗黒大将軍」の監督
※5 元の名は東京ムービー新社、東映動画と並んで、日本を代表するアニメ会社

※6 少年ジャンプのアンケートシステムを考案した編集者








本年度のカンヌ映画祭では、是枝監督が監督賞を受賞した。
カンヌ映画祭で世界で初めてアニメーション作品が上映されたのは、ダフトパンクのミュージックビデオ「インターステラ5555」という作品である。キャラクター原案の松本零士氏は、カンヌ映画祭に招待され、この時初めて、海を越えた。
キャラクターデザインと作画は佐藤正樹。

佐藤正樹・・・日本が世界に誇るアニメーターである。

















2013年5月3日

[紹介]マッキー

これから、私、マッキーが一関出身で活躍している方々に、インタビューして、皆様にお伝えしていきたいと思います。
ここで、簡単に私の紹介を・・・。
小中高と一関で過ごし、趣味はアニメとマジックとミステリー。
詳しいことは、このブログを通して、次第に分かっていくことと思います。
インタビューしている方々と私とは微妙に交わっている部分がありますので。

それでは、楽しみにしてください。


2013年4月25日

【プロフィール】「MIST」Aiさん

★職 業 ガールズロックバンド「MIST」ボーカル
★出 身 一関市川崎町
★卒 業 薄衣小学校、川崎中学校、前沢高校、東京の音楽専門学校
★血液型 AB型
★趣 味 お昼寝
★特 技 知る人ぞ知る!キン肉マンのフェイス・フラッシュ
★リンク MIST Official Hp
     Twitter
★音 源 1st CD BLAIN DIMENSION
                     01:BLAIN DIMENSION 02:SWEET CARNIVAL
                   2nd CD To Myself ~The Enblem On a fkag~
                     01:To Myself 02:Alena 03:MAIN CAST 

【インタビュー】「MIST」Aiさん


 ――小さい頃はどんなお子さんでしたか。
女の子なのにいつも男の子と遊ぶ、やんちゃな子どもでした。見かねた両親が、少しでも女の子らしくなってほしいと私を日本舞踊とピアノに通わせました。小学校に入ってからは、マーチングバンドにも取り組みました。

――川崎町の思い出はなんですか。
 なんといっても花火大会です。夏休みに花火大会を見るのが楽しみでした。東京に行ってからは帰省するのは2年に1回程度ですが、夏にはなかなか帰ってこれづ、何年も花火大会が見れず残念です。

――音楽を目指したきっかけはなんですか。
 ミスターチルドレンのシーソーゲームを聞いた時に衝撃を覚えました。その勇敢な恋の歌を聞き、いつか自分もこんな曲を作ってみたいと思ったことがきっかけです。ゆずの曲にも感銘し、ギターを始めました。路上ライブを重ね、メンバーとも出会い、バンド「MIST」を結成することができました。

――バンド名「MIST」の由来はなんですか。
 なんだと思いますか。実はメンバーのイニシャルを並べたんです。これを言うと、私Aiの「A」がないのが不思議がられるんですが、Aiは「アイ」と発音するんでMISTの「I」が私なんです。それでMISTの「I」だけが赤なんです。(笑)

――このたび2枚目のCDが販売されましたが。
 ここまでたどり着くのが、本当に大変でした。最初の目標がCDを出すことでしたので、ファーストCDが完成した時はうれしかったです。今回、2枚目のCDが出来ましたので、もっともっと一関にも足を運びたいと思います。
 今回「Project U」という企画に参加しています。これはアルバムが1000枚予約が取れると全国デビューできるというものです。全国デビューして一関市を知ってもらい、知名度アップにも貢献したいと思います。ぜひ予約して下さいね。

――最後に一関市民の皆様に「きらり☆メッセージ」をお願いします。
 3・11の震災直後は、東京からの物資運搬など自分で出来るお手伝いをしてきましたが、私自身も東日本大震災をまだ引きずっている部分があります。新曲「To Myself」のサブタイトル~The Enblem On a Flag~は希望や目標をもってという意味も含んでいるんです。
「自分を信じ、希望を持って、一緒に頑張っていきましょう」


インストアライブ一関「VidaCafe」