2015年10月21日

watoさん インタビュー

今回はフードコーディネーター、イラストレーター、管理栄養士という三つの顔を持つ、watoさんを紹介します。
watoさんは、以前インタビューした菅原正二さんの長女です。

主な著作物
「日替わり野菜弁当」 青春出版社
「キレイにやせる美人レシピ」 成美堂出版
「リトルギフト」 サンクチュアリ出版
「親子でニコニコ朝ごはん」 ワニブックス
「かんたん、満足やせ*ごはん」 学研プラス
「春夏秋冬ごはん帖」 ヴィレッジブックス


今日はよろしくお願いします。

こちらこそ。父のインタビュー記事を読ませていただきました。

そうですか。ありがとうございます。

今までにwatoさんが出版した本を持ってくる。

ずいぶん、ありますね。

記事にはイラスト集とありましたけど、レシピ集ですね。

これは編集の方から、話が来たんですか?

そうですね。「本を出しませんか?」という話がありまして。

一番最初に本を出されてから、それから広がっていったんですよね。

一番、最初の本は2009年に出したんですけど、その前から、割りとメディアでお仕事をしていたので、それで声を掛けていただいたという感じでしょうね。栄養士の免許を持っているので、カロリー計算とか、栄養の説明が付いている本が多いです。ダイエット情報誌とか・・・。

もともとは大妻女子短大を出られて、病院に勤めていらしたんですものね。

そうですね、短大を出て、病院に四年勤めて、そこを辞めて夜にイラストの学校に行きました。

パレットクラブですね。

そうです。夜はパレットクラブスクールに行きまして、昼はスープ屋さんでバイトして、そういう生活が六年続いて、その後フリーランスになって、こういう本を出しました。それが2006年か2007年ぐらい・・。

すごいですね。普通、なかなか本とか出せないのに・・・。

ほんと、ラッキーでしたね。

スープ屋さんに勤めている時から、何かしてたんですか?

もうケータリングを始めていたので、いろんなイベントに料理を持っていって、パーティー料理を出していたりしていたので、人脈は広がりましたね。それから、五、六年経って、「まだやってる?」
みたいに声をかけていただいて、そこから広がったという感じですね。運だけですね。

いやいや、我々の先輩の島地さんが「人生は運と縁とセンスだ。努力はあまり関係ないんだ」と言いますからね。(笑)

努力もほしいとは思いますけど・・・。(笑)運と縁はありましたね。

その頃からカリー番長さんとは知り合いだったんですか?

カリー番長さんとは2001年ぐらいに知り合って、2002年頃からケータリングを始めようと思った時に、彼らはその3年ぐらい前から始めてたので、先輩なので、「どうやったらいいか、教えてください」と連絡を取ってそれからの付き合いですね。

自分たちの店舗は持ってないんですものね。

持ってる人もいますけどね。カリー番長さんは持ってないですよね。

車に積み込んで営業してますものね。

ケータリングって、二タイプあって、完全に仕込んで仕出し弁当みたいに行った先で並べるだけのものと、行った場所で作る場合があって、それはパーティ会場に調理器具があるかないか、という環境の問題があって、そこは依頼主さんとの打ち合わせですね。

そうですか。

半々のこともありますね。前菜は持っていって、メインは揚げたて、焼きたてを出す。それは打ち合わせで決めていきます。

なるほど、弁当屋さんとは違うんですね。

お弁当の依頼もありますけど、ただ、お弁当を届けて終わりというよりは、イベントやパーティーのテーマがあって、そこに関連した料理を届けて、その場づくりのピースの一つになれるか、オリジナリティを出せればいいかな、と・・・。

さすがに違いますね。

非日常を届けるのが、ケータリングだと思いますので、なるべくテーマを聞いてヒントをもらってから、作ってますね。

あの、ちょっと前に日韓ワールドカップがありましたよね。

はい。

その時に私、組織委員会の一人に選ばれまして、大阪でサブディレクターをやりました。その時にケータリングをどうしようか?みたいな話になって、私、その時、初めてケータリングという言葉を知りまして、弁当屋さんじゃないの?と思ってたんですが、スタッフの方に料理をお出しする、という感じで、まあ、何かテーマみたいなものが、あるんですよ。

企業がやってるビュッフェみたいなものもあれば、私みたいに個人でやってると、大規模のものは出来ませんけど、細かく寄り添ったものが、出来ないかな?と・・・。唐揚げとフライドポテトだけじゃないものを作りたいなと・・・。

子供の頃から料理は好きだったんですか?

母親の手伝いをする程度で・・・。中学に入ってから、意識し始めましたね。でも、料理することを職業にするとは思わなかったので、とりあえず一関一高に行こうかな、と。

すごいですね。

両親とも一高だったんで・・・。

あっ、お母さんも一高生だったんですか?お父さんとは同級生で?

いえ、母は七つほど、年下ですね。

そうですか、お母さん、薬剤師ですものね。料理の才能はお母さんから受け継いだんですね。絵の方は?

父から受け継ぎました。

お父さん、家で絵を描いたりするんですか?

描きますよ。

ベイシーにあるコーヒーカップに猫の絵があって、お父さんが描いたんですよね。

ええ、でもあれは猫じゃなくて、自画像なんですって。

自画像?

コーヒー豆の麻袋を被った自画像なんですよ。猫みたいに見えますけど、麻袋なんですよ。

麻袋を被った菅原正二ですか・・・。

あまり。知られてませんけど・・・。

面白いですね。(笑)

リスとかバンビとか、ディズニーや手塚治虫先生の影響を受けているので、動物を描くのが上手ですよ。

音楽の方かと思ったんですけど・・・。

どっちも・・・。ベイシーのポスターも、昔は全部手書きで、レタリングもしてましたから・・・。

カッコいいですね。私の父も一高ですけど、ただの酒飲みですからね。(笑)

一人っ子で、両親とも共働きで、一人の時間は結構あって、お絵かきするのが好きでした。絵を描いてると、下手でも上手くても、「描け描け」って、「何でもいいから続けろ」というのが父の教えでしたね。褒めて伸ばすタイプですね。私は褒められて木に登るタイプで・・・。(笑)自分は絵が好きなんだ、って、そこでいい具合に刷り込まれて、それで続けようと何の疑問もなくきて、今に至るという。

いやあ、確か病院でwatoさんの絵が飾られているとか・・・。

盛岡にあるゆとりが丘クリニックですね。

病院の人はどこかでwatoさんの絵を見られたんですか?

たぶん、父が見せたんですね。

知り合いですね。ああ、それで面白い絵だと・・・。

今も飾ってあるんですか?

今も飾ってありますね。一年半ほど前に伺った時にまだ飾ってありました。いっぱい飾ってくれてました。

やっぱり患者さんの精神にいい影響を与える、ということですよね。

そうおっしゃってくれてましたけど。そうだといいですね・・・。

そうですよ。グロい絵だったら、飾らないですものね。

グロくないですよ。(笑)

ほのぼのとしてるから、いいんですものね。

原画がたくさん自宅にしまい込んであるので、もったいないので、飾ろうかなと・・・。

それなら額に入れて、サロン・ド・シマジに飾ったらいいと思いますよ。

いえいえ、そんな・・・。

いや、あそこは金持ちが集まりますから、売れますって・・・。(笑)

しばし、watoさんの絵を見る。

これは何の画材を使ってるんですか?

色鉛筆やクレヨン、絵の具、いろいろ、ごちゃ混ぜですね。これは猫にまつわる本で、いろんな人が19人ぐらいで、猫の絵を描いてますね。

猫はお好きですか?

動物が好きですね。でも、この中で猫を飼ってないのは私だけなんですよ。私だけ築地の猫を写真に撮ったんですよ。毛のある四つ足が好きですね。アルパカとか・・・。

アルパカ・・・。この前子供と荒川遊園地に行ったらアルパカがいて、触りましたよ。

那須にアルパカ牧場というのがあって、400頭ぐらいいるんですよ。

そんなのがあるんですか?

そこに通ってたら、所長と仲良くなって、アルパカのコラムを書いたという。

すごいですね。でも意外とアルパカって汚いんですよね。

ああ、泥んこですよ。

ところで一関は料理を作るのが好きな人多いですよね。小松彩夏さんはニコニコチャンネルでこまっちゃんねるというのをやってるんですけど、料理を作ってレシピを載せてますし、リズム食堂の長男のプロレスラーのYAMATO選手はフードコーディネーターですし、志田友美さんはNHKのEテレのスイエンサーで見事な料理の腕を披露してますからね。今、執筆中のものって、あるんですか?

ないですよ。

一関のミニコミ誌に連載してましたよね。

『はなうた』ですか?はなうた自体、なくなりましたよ。

いつですか?

結構、急でしたよ。次に載せる原稿を書いて渡してたのに、来月から無くなると・・・。

それは何ですかね?資金難ですかね。

深くは追及していませんけど・・・。残念と思って・・・。段々、薄くなってきて・・・。結構はなうたを楽しみにしていた方はたくさんいらしてたんですけどね。

一応、一関市民は目を通してるんじゃないですかね。私の母も知ってましたし・・・。

また、何かあれば・・・。はなうたを見てると、一関にこんなにお店があったんだと・・・。いつか行ってみたいと思って見てたんですけど・・・。

島地さんから、美味しい一関のお店を教えてもらいまして・・・。

どこですか?

富澤って知ってますか?

ああ、知ってますよ。前、一緒に行きました。島地さんが家に来たとき、父と一緒に大勢で行きました。

そうですか。私は知らなかったんですよ。富澤は知ってましたけど、普通の魚屋さんだと思って・・・。奥に食べるところがあるとは。

ええ、奥に素敵な蔵があるんですよね。一階がすごい喜ばれるんですよ。

後はアビエントですかね。

アビエントは行ったこと、ないんですよ。地主町にあるバーですよね。

マスターがモデルをされていたとかで、イケメンなんですよ。

そうですか。

仙台でバーの修行をされていた時にモデルをやってたんですよね。松本旅館の息子ですよ。

さすが、いろんな方、ご存知ですね。(笑)

一関の情報は並じゃないですよ。(笑)

私は高校終わって、一関を出てますから・・・。高校時代、行くところなんか限られているじゃないですか。飲み屋に行くわけじゃないし、全然分からないですよね。帰省しても行く所が決まってますからね。両親と一緒にいるから、なかなか知らないんですよね。後で教えてもらおう。

いえいえ、そんなことないんですけどね。一関に帰ったら必ず行くのはアイスのポラーノ。あそこは美味しいですよね。休みの日はお客さんが一杯ですよね。車のナンバーを見ると、どこから来てるんだ?みたいな。

今くらいの季節だとドライブしたら、新緑で気持ちがいいですよね。二年前に免許、取ったんですよ。

ブログに書いてましたね。車を買われたんですか?

東京にはシェアカーがあちこちにあるので、それを利用してます。

その方が安いんですかね。

毎日は乗らないし、駐車場代はかからないし・・・。すぐ隣にあるので、マイカーですよね。都内はレンタカーとシェアカーで十分ですよ。丸一日乗るなら、レンタカーの方が安いし、ちょい乗りなら、シェアカーの方が安いんです。

あの、二年前までは、どうやって料理を運んでたんですか?

タクシーか主催者の人に来てもらうか・・・、都心に住んでいたので、楽ですね。今でも場合によってはタクシーを使いますね。会場に行って、荷物を下ろして、駐車場探すより、タクシーでぱっと行った方が早いですよね。交通費は別途いただくので、タクシーの方が安かったりするんですよ。

あの、それでよかったのに、どうして免許を取ったんですか?

震災がきっかけですよね。自力で沿岸を回りたかったんですよ。震災後、私が最初に帰ったのは新幹線開通直後、ゴールデンウイークだったんですが、足がないから、沿岸に行けなくて、その後ようやく支援団体に入って、車三台ぐらいに乗り合わせて、岩手の沿岸に行って、保育園や集会所でボランティアしていて・・・。その後も月に一回、一関に帰省していたんですけど、沿岸に行く手段がなかったんですよね。電車もないし。車があれば、皆の予定を合わせなくても、行こうと思った時に行けますし・・・。こんなに近くなのに、というもどかしさがあって・・・。団体で行った時に知り合った人もいるので、気軽な感じで行きたいんですよ。そういう気持ちが募って、免許を取ったんです。後はこう言っては何ですけど、親が年を取ってきたので、何かあった時、すぐ行けるようにした方がいいのかな、というのもあって・・・。三つめは那須のアルパカ牧場に頻繁に行きたいというのがあって・・・。ここも車じゃないと、行きづらいんですよ。(笑)いつも友達と予定を合わせて行っていたので・・・。当初は東京で仕事で使うということは考えてなくて・・・。そういう理由で免許を取ったんですけど、いざ取ってみると、都内でもすごい便利で・・・。

そうですよね。

大船渡に夜行バスで行って、レンタカーを借りて陸前高田まで一人で行って・・・。これが、やりたかったんだって。バスが非常に少ないので、車がないと、なかなか行けないんですよ。

現地に行って、料理を作るということですか?

そうですね。いろいろなタイプがあって、この間はある仮設集落に行って、おばあちゃん達とお料理教室をやりました。冬だったので、牡蠣の料理を作って、みんなで食べました。そこは以前からボランティアで行っていたところで、だいぶ整ってきたので、今度はボランティアではなくて、我々が仕事として依頼したいということを、言ってくださって・・・。この前はワカメ漁を手伝ったり、のど自慢大会を企画して、集会所のおばあちゃん達と過ごしたり・・・。

まだ仮設住宅の方って、いらっしゃるんですか?

いますよ。まだ大勢いますよ。

いまだにですか?

いっぱい、いますよ。

この暑い夏どうするんですか?

暑いし、寒いし・・・。

エアコンとか、あるんですか?

一応ありますけど、プレハブですからね。横からの照り返しもあるし・・・。そうですよね。当初、二年といわれていたのに、もう五年になろうとしてますよね・・・。とは言え、徐々に高台に移転が始まってます。ただ、それには新たな問題があって、お年寄りなんかは仮設の中でコミュニティが出来て、仲良くなってる人達がいるのに、移転となると、また、そこで新しいコミュニティを作らないといけないんです。何回も再構築していかないといけないという難しさがあるんです。今は瓦礫撤去みたいなボランティアはないですけど、皆が集まる場所を作るようなお手伝いとか、楽しく笑いあえる時間が出来たらいいな、とか・・・。陸前高田は小さい頃、海水浴に行っていたこともあって、衝撃も大きいんですよ。

ああいう津波が来るとは、思わなかったですね。

観光する場所がたくさんあるので、遊びに行ったらいいと思いますよ。

そうですよね。遊びに行って、お金を落とせばいいんですよ。

そうです。食べるところもありますからね。

旅館とかあるんですか?

ありますよ。でも、埋まってるんですよ。まだ工事関係者の方が泊まっていらっしゃるので、早めに予約すれば、大丈夫ですよ。あと、民泊といって、民家に泊まらせてもらうシステムも出来ているので、問い合わせれば方法はいろいろとあります。新しいビジネスホテルみたいなものも出来てきてますね。最初の頃は集会所で寝袋で寝たり、保育園で寝たりしてました。(笑)

スーパーもあるんですか?

ありますよ。イオンもできましたし・・・。

私、一高を卒業した後、国鉄に入って、最初に配属されたのが釜石だったので、まさか釜石が津波であんな風になるとは、思わなかったですね。鉄の町だし、ラグビーで有名だったので、強いイメージがあったんですけどね。

釜石は団体で行った時に、市役所の方と知り合いになって、釜石の街を案内してもらいました。仲良しになったケーキ屋さんとブレイクタイムをしたり・・・。釜石に父の友人が経営しているジャズ喫茶があって、復興のお手伝いに行ったこともあるんですよ。

たしか、一階が流された、という話しを聞いたような・・・。

ジャズ喫茶は二階にあったので、レコードとかは大丈夫でしたので、ちょっと改装して営業できました。

それは、良かったですね。あの、震災の時、ベイシーは大丈夫だったんですか?

ベイシーはヒビが結構、入って・・・。蔵で土壁なので、崩れたりして・・・。二階の大きな梁が割れたりして、二か月ぐらいで直しました。でも、最近、音が外にすごい漏れてるんですよ。(笑)どこか、大きなヒビがあるんじゃないかと・・・。私も東京にいて、つぶれたと思いましたよ。母とはすぐ連絡が付いたんですけど、父とは連絡がつかなかったので。逃げないで支えて、下敷きになったんじゃないか、とか・・・。レコードの下敷きになったとか・・・。

お父さんですからね。三トンあるレコードを身体で支えててもおかしくないですからね。(笑)

東京の父の知り合いからも、ひっきりなしに父の安否をうかがう電話が来たんですけど、怪我もなく大丈夫でした。

真面目な話になりますけど、これから、やりたいことって、ありますか?

これは言いだしてから、もう何年にもなるんですけど、日本の郷土料理に興味があって、その郷土料理を教えてもらいに行く旅に出たいです。そこに住むおばあちゃんに習いたいです。できれば東北全土を回ってから、日本全国を回るのが楽しそうですけど・・・。

それは何かに発表するんですか?

そうですね。やはり写真や文がある書籍という形がいいと思うんです。映像という形がいいんじゃないかという人もいますけど、それはハードルが高いので、まずはレシピで。郷土料理って、そこに住む人には日常過ぎて、レシピってないんですよ。数値化されていない。そこに住んでいる人にだけ伝承されてる。最近ではもう伝承が止まっている。でも、その料理が生まれた背景がそこにはあって、気候とか歴史とか・・・。どうしてこの食材を使うのか、調べてみると面白くて・・・。これは残した方がいいんじゃないかと思って・・・。ただ郷土料理を知ってるのって、私から見るとおばあちゃんの世代であって、私の母の世代は洋食が流行って洋食に憧れた世代のような気がするんです。私の母も煮込みビーフシチューやロールキャベツが得意で美味しいんです。岩手の郷土料理の「すいとん」や「はっと」とかは、あまり作らないんですよ。そうすると私の世代がおばあちゃんの世代に聞いておかないと、なかなか残っていかないんじゃないかと・・・。そうなると大分急がないと・・・。

もう八十ぐらいですからね・・・。

このことを思いついてから、もう四、五年経っていますけど、なかなか実行出来なくて・・・。いろんな土地に行って、その場所のおばあちゃんに会いたいっていうのが夢ですかね。ただ自分のスケジュールもあるし、予算的なこともあって、いきなり全国は回れないので、まずは知り合いのおばあちゃんでも、訪ねるのがいいんじゃないかと思ってるんですけど・・・。どこに行ったらいいのか、というのが分からずにいるんですけどね。私の母方の祖母は名古屋から嫁いでるので、名古屋の郷土料理を教えてもらうんですよ。押し寿司とか・・・。日本に昔からあるような料理を覚えて、その料理をそのまま作れるようにもなりたいし、今風にアレンジを加えて出してみたいな、というのがありますね。ライフワークになるといいですね。それが終わったら、世界に行って・・・。

すごいですね。

フランスの田舎町に行ってとか、妄想は膨らみますね。(笑)

でっぷりと太ったおばあさんが、いたりしますよね。

可愛いスカート穿いて花柄のスカーフを被ってと、そういうおばあちゃんに憧れますね。何か所かは、やってるんですよ。イベントに呼ばれて島根に行ったことがあって、その時、廃校になる小学校を使って文化祭をやろうという企画があって、地元と早稲田大学の建築科のチームが組んで、地域の再生活性化というテーマで、地域の人たちと地元の食材を使って、私が新しい食べ方を提案して、地元の人は普段よく食べている料理を私に教えてくれる。一緒に料理を作って、それを文化祭で販売するという企画を立てて、これかなっていう感じはしました。知らない食材を見るのも楽しいし、向こうの方たちと会うのも楽しいし、私の提案にこういう食べ方もあるのかと、向こうの方も喜んでくれて・・・。陸前高田に行った時も、牡蠣という食材があって、自分たちだと煮付けるか鍋にするか、フライは若い人がいないからしないし・・・。食べ方が偏って、飽きるというので、「ではミルクシチューを作ってみます?」と言って作ったらすごい洋風だと言って喜んでくれて、そのやり取りが楽しかったので、そういう交流が出来たらいいなと・・・。その規模を小さくして、岩手県内でやるのも、楽しそうですけどね。岩手県は広いから五つのエリアに分かれて話しますけど、その五つでも方言も文化も元々の藩も違うし・・・。

そうですね、岩手県内でも、面白いものができそうですね。

仕事で遠野にひっつみを習いに行ったことがあって、遠野のおばあちゃんに習って、それもよかったですね。おばあちゃん、募集中です。一関市内の方でも、いいです。

最後に一関の方にメッセージ、ありませんか?

私自身、一関の良さをあまり知らないので、楽しいお店、愉快な人、面白い一関の情報がありましたら、ぜひ、FMあすも「watoのおむすびラヂオ」まで、お手紙、待ってます。

うまく、まとめましたね。(笑)今日はどうもありがとうございました。

2015年10月13日

島地勝彦氏・菅原正二氏 対談

先日、東京の大塚で関中・一高会の同窓会が行われ、島地勝彦氏、菅原正二氏の対談が行われました。その時の模様をお送りいたします。


司会  定刻になりましたので、始めさせていただきます。関中/一高会結成60周年の記念対談として、対談者のお二人に登壇してもらいます。最初は島地勝彦さん、エッセイストでバーマンをやっておられます。第59回昭和35年の卒業です。二人目は一関の地主町から一高に曲がる角にあるジャズ喫茶ベイシーの店主、菅原正二さん、第60回昭和36年の卒業です。実はお二人とも水商売の方でして、島地さんは今日は伊勢丹にあるバーの出勤日なんですが、それをふってこちらに来られました。菅原さんは今日はジャズ喫茶を開く予定だったんですが、それをクローズして、こちらに来られました。実は伊勢丹のバーもジャズ喫茶ベイシーも休日になると、全国からお客さんがいらっしゃいます。そういう方々をがっかりさせる。これも一関一高を愛するが故でございます。お二人に特徴的なことは二つあります。一つは非常にこだわりの人です。もう一つは非常に素晴らしい方との出会いがあって、今日がある。そんな個性的な二人がガチンコでぶつかって、どんな話が出てくるのか、60周年にふさわしい面白い話が出るんじゃないかと期待しております。よろしくお願いします。

島地  私は山手線の恵比寿から来れば、この会場まですぐなんですが、正二さんは今日一番の新幹線に乗って、昨日の夜まで原稿を書いて疲労(ひろう)なんです。ただ、皆さんに会って元気をいただいたということです。

菅原  島地さんは広尾(ひろお)に住んでますよね。(笑)

島地  はははっ、私は広尾に小さなマンションを持っております。一関にも小さなマンションを持ってます。一関には三か月に一回ぐらい一週間ぐらい、帰ってます。そのぐらい、私は一関を愛してます。一関一高も愛してます。一高時代は学校嫌いの勉強好きだったかなと、反省してます。本はよく読みました。図書館の本は私が一番読んだんじゃないかというぐらい、体育の時間をさぼってはしよっちゅう本ばかり読んでて、現在もこういう商売をやっているというのは高校というのは人生において、相当、影響があるんじゃないかと思ってます。中学校から勉強を始めて、いい大学に入る。それも楽な人生でしょうね。正二さんは早稲田を出てるんだから、大したものです。いつも会うと「東京オリンピックまでは元気でやろうな」と言い合ってます。我々は物書きと水商売ということで、共通点があります。私の場合は完全に集英社を引退してから、ベイシーに通うようになり、今では無二の親友です。一週間に一回はFAXを交換して、電話をしています。この指輪、見てください。同じ指輪です。結婚しているわけではないんですよ。(笑)会うと充電してるんです。エネルギーを交換し合っているんです。そういう仲です。

菅原  充電ですけれども、大事ですよね。青春時代に雷に打たれたようなショックを受けたことが、皆さんもあるでしょうけど、これが充電で今日まで来ました。還暦を過ぎたころから、雷が怖くて横転しっ放しでした。ここのところを何とかしたいと四苦八苦して無理やり充電して、こんなことになってると・・・。(笑)

島地  皆さんもそうでしょうけど、高校も一学年下だと、全然交流がありませんよね。私もそうだったんですが、やはり『全ての道はローマに通ず』勝手にお互いここまで人生をやってきて、やはり同じようなところに落ち着いたということでしょう。

菅原  ローマまで言われると困りますけど、私は一関の衣川で道に迷ったことがあるんです。厳美から平泉に抜けようと思って。それで分からなくなって、農業やってるおじさんに「この道はどこへ行くんですか?」と聞いたら一言「どこさ行くのも一緒だ」と。(笑)ローマの道と一緒です。あの時、私は悟りました。

島地  そうですか。その農業をしてるおじさんが、現在日本に一杯いる有名な評論家よりも上だと。これは今先生がおっしゃってたことですけど「名物に旨い物なし、有名人に大したやつはいないよ」と。その言葉を私は今でも信じてます。私がベイシーによく行きます。渡辺貞夫さんとか、正二さんの人脈でよく呼びますけど、一関の経済効果はすごいと思いますよ。ホテルが満杯なんですよ。だから、私は一関に小さなマンションを買ったんです。いつ行っても、安心して泊まれるように。ベイシーの経済効果はすごいですよ。今日は一関市長はいませんか? 私は市長に言いたいですね。本当に頑張ってますよ。私は週末にしか、お店に出てませんが、正二さんは毎日ですからね。でも、一学年下で良かった。こういう人が、私より上だったら、相当、頭を下げなくてはいけなかったですよ。ここは少しばかり、私の方が強運だったかなと、思ってます。

菅原  高校時代は、島地さんは文学だったし、私はラッパばかり、吹いてましたからね。あの当時、一高には古藤先生がいらっしゃいましたからね。古藤先生が音楽のレベルを非常に上げたと思いますよ。古藤先生は芸大を出て、ベイシーに来て、カウントベイシーを聞かせたら、「なんとタイミングのいい音楽でしょう」と見事にベイシーの核心を衝くんですね。音楽の時間に生徒をベイシーに連れてきて、レコードコンサートを開いたりするんですよ。ですから、古藤先生が一関の音楽のレベルを上げたと思いますね。

島地  まあ一関一高には、いろんな面白い先生がいましたね。私が一番影響されたのは、英語の柳瀬先生ですね。

菅原  柳瀬先生(笑)

島地  呑んべーで。この先生に相当影響されて・・・。

菅原  柳瀬先生がブラスバンド部の顧問だったんですよ。

島地  そうなんですか・・・。私は音楽は全然ダメだったんですが、柳瀬先生には英語の原書を読むことを教わりましたね。それで柳瀬先生は大立山に家がありまして、私はしょっちゅう先生の家に行きましたが、すごいのはローソクで暮らしてるんです。「先生、どうしてローソクで暮らしてるんですか?」って聞いたら、電気料金を滞納していたらしくて、東北電力に「料金を払わなかったら、電気を止める」と言われて、飄々とした先生ですから「どうぞ、どうぞ」と言ったら、本当に電気を切られたそうです。私はローソクの炎がこんなに美しいと感じたのは、柳瀬先生の大立山の家でしたね。今は時効ですから話しますけど、すごいのは「ちょっと、まあ呑みに行きましょう」と、柳瀬先生は自分の家が狭いので、バーに案内してくれたんですよ。それで、私はバー通いを覚えて、今こうして、バーマンをやってるんですよ。みんなにお返しをしようと思って・・・。バーのカウンターは人生の勉強机だと、私は痛感しております。いろんなことを、バーのカウンターの上で、お客様やバーマンに教わって、私も失敗談をお話ししたりして、エッセイにも書いてます。それが現在の私なんですが、正二さんのすごいのは、私はいつも感心してるんですが、LPレコード、25分ですか・・・。

菅原  平均すると25分ですね。

島地  私と夢中になって話していても、正二さんは耳は聴いていて、LPレコードの曲が終わりごろになると、すっと立ち上がって、針を自分で落とす。そこは聖域なんですね。私なんかいい加減で、シェイカーを振るのが、面倒くさいと伊勢丹の若いやつに振らせて、出来上がったものは私がお客様の前に置きますけど、四十肩というのがありますけど、七十肩になって、痛くてシェーカーを振っていられなくなったんですよ。私も考えてスローで振っていたんです。結構、私のバーには一流のバーマンが来るんですよ。林さんという世界大会で優勝したバーマンがジーッと見て、「島地先生のスローシェーキングは、なかなか味がありますね」と、言うので、まあ、こういうのもあるんでしょうと、黙ってましたよ。(笑) 恥もうまく隠せるようになると、年の功ですね。私は74歳、庄司さんは73歳、まあオリンピックまでは元気だと思ってます。実は伊勢丹からは「86歳までバーマンをやってくれ」と言われてます。あと12年ですよ。それは不可能だと半分思ってます。でも、可能かもしれない。70を過ぎて、どう思いますか? 正二さん・・・。

菅原  なんか、非常にすがすがしいというか、邪念が消えましたし、向上心も捨てました。非常に楽になりましたね。向上心といいますけど、向上心も邪念なんですよ。もっと上手くなろうとか、もっといい演奏をしようとか・・・。こういうことを渡辺貞夫さんに言うと、叱られるんですけど・・・。渡辺貞夫さんは向上心の塊ですから。

島地  いくつなんですか?

菅原  私のちょうど10歳上ですから、83歳。

島地  すごいね。

菅原  とどまるところを知らない。逆説的に向上心を捨てた、と言うと「ダメじゃない。正ちゃん」と叱られるんです。でも、それには裏があるんです。捨てていくから、味が出るんです。にっちもさっちも行かなくなって、45年間経ちますから、これ以上、向上心を持っても明るい未来はないというのが、分かってますから・・・。このままでいいんだ、と。一種の開き直りですね。

島地  この指輪はスカル、骸骨。なぜ、こういう指輪をしているかというと、これを見て「年齢とともに死を忘れるな」ということを思っているわけです。人類というのは、死に対する行進ですよ。それを粛々として、受け入れるべきであって、もがいたりしては、いけないと思います。それが、私の74年の人生観で、もう一つの私の夢は年齢不詳になりたい、ということです。それを目標に、また生きがいに生きてるんですけど、なかなか難しいですね。(笑)

菅原  何者にもならない、というのも手ですよ。

島地  無というね。でも、正二さんは何者でもない、と言いながら、いつもお店に原稿用紙を置いて、ステレオサウンドに書いて、朝日新聞に連載して、今日の事も朝日新聞に載せるそうです。

菅原  今日も朝日新聞の一関支部の記者がわざわざ取材にいらしてくれてます。

島地  正二さんと私の違うところは、一つあって、全国からいろんなファンがベイシーにやってくるということです。北海道から若者や引退した人が一杯来て、初めて会う。懐かしい顔に会うというのもいいですけど、初めて会う興奮というのもなかなかいいものです。向こうが勇気を持って、直当たりしてくるんです。沖縄からも、この前いらしてましたよね。すごいでしょう? それは正二さんに対する想いだと、思いますよ。

菅原  それは渡辺貞夫さんのライブを間違えて、一週間早く来ちゃったの。(笑)来週ですよ、って言ったら「じゃあ、また、来ます」って、帰っちゃったの。昨日は西のお客さんが多かったですね。四国の香川県から来た、博多から来た、大阪から来た、と。

島地  私は正二さんが全国区になったのは、テレビの「ヨルタモリ」でタモリが正二さんに憑依をして、岩手のジャズ喫茶の吉原さんの役をやったからだと思いますよ。

菅原  あれはタモリが勝手にやってるんですよ。相談してやってるんじゃないかと言われるんですけどね。

島地  でも、正二さんの特徴をなかなか上手く、表現してますよね。

菅原  タモリは天才です。私が笑っちゃいますから。(笑)よく似せて、しゃべってますよ。あれは面白い番組ですね。

島地  私もほとんどテレビは見ませんけど、あの番組は必ず見てます。やっぱり、吉原さんが一番いいですね。ほかのやつはダメ。

菅原  言いやすいんでしょう。ジャズのことだし。

島地  よく知ってるから、憑依しやすいんでしょうね。

菅原  島地さんの書いた本の中に『悪党はケータイを持たない』というのが、ありますけど、私はケータイを持ってないんです。タモリが私の行方を捜してるんです。行方不明になっちゃうんですよ、店を出ると・・・。

島地  なるほどね。

菅原  タモリが「どこに行っちゃったんですか?」と。 

島地  正二さんはケータイを持たないけど、ケータイを持った美人を携帯するって、言ってますよ。(笑)

菅原  そういうところは、頭がいいからね。(笑) ところで、45年間も一高前で定点観測してますと、いろいろ変わりますね、生徒の質も・・・。ある時から、男女が手をつないで平気な顔をして、歩いてますし、最近は中高一貫になったので、中学生が通るんですね。中学生は挨拶するんですよ。私も「お疲れさまでした」と挨拶を返したりして。(笑)

島地  中高一貫教育ですが、校長先生に聞いたんですが、中高一貫にしないと、日本の学力は間に合わないみたいですね。今、一高の先生は若返って、予備校みたいになりましたね。

菅原  それは、どうでしょう。(笑)

島地  ベイシーに中学生や高校生が入ってくるのを見たことがありますが、学割で安いんですよね。

菅原  タダでもいいんですよ。高校生なんかは。

島地  将来の布石を打ってると思うんですよ。このことは重要ですよ。伊勢丹は厳しいところで、18歳、19歳の人が入ってくると、お酒はダメでコーヒーや紅茶を出すんです。お酒は800円でコーヒーは2000円で紅茶は1500円です。だから、「高いの飲ませるより、安いお酒でいいんじゃないか」と、私は言ってるんですが、伊勢丹側は「ダメです」と。営業が三、四人、いますからね。もし私に直当たりしたかったら、いつでも皆さんをお待ちしております。人生の悩み事でもなんでも相談してください。私で分からなければ、正二さんに振りますから。

菅原  一番最初のテーマを忘れてました。人生の初期の段階で巨大な人に出会って、心酔して、そのことが非常に重要じゃないかと・・・。それで今日、こうなってると・・・。島地さんは、ご存じの通り、今東光大僧正、開高健、柴田錬三郎の薫陶を受けて・・・。まあ、そのように立派にはなってませんけど、肩に背負って死者が甦ってますから。私は学生時代から、ジャズの神様の野口久光先生。他にもいらっしゃいましたけど、野口先生が圧倒的だったんです。その後、カウントベイシーが現れて・・・。どうも、大物に会う運命なんですね。そういう人たちと付き合うようになって、それが財産ですね。

島地  よく分かります。私も世間的に立派な今先生、柴田先生、開高先生に初めて会った時、こっちがその人の作品を読んで尊敬してると「おっ、こいつ可愛いやつだ」と思うんですね。そのぐらい作家というやつは孤独なんでしょうね。今、正二さんが言った野口先生の素晴らしいのは、映画のポスターは世界一の名匠ですね。『居酒屋』・・・。

菅原  『禁じられた遊び』もそうですし、『大人はわかってくれない』のポスターはトリュフォー監督が一生、自分の部屋に飾ってましたから。

島地  それぐらい凄い人なんです。

菅原  フランスの映画より、ポスターの方が芸術的でしたから。今、各地で野口先生の展覧会をやってます。そのうち、また、大きいことを考えてますけど。

島地  皆さんもそうでしょうけど、社会に出てから・・・。私はたまたま編集者になりましたけど、相性でしょうね、人間というのは。究極、人生は運と縁ですよ。努力はあまり関係ない気がしますね。どうですか?

菅原  私は棒を立てて倒れた方のどちらに進んでも、大差ない、と思いますね。

島地  芸術家という人は右へ行けば困難、左へ行けば艱難。歴史に名を残したアーティスト、たとえばモジリアーニやモーツァルト、藤田嗣治さんも、難しい方に行ってますね。そこが我々、一般人と命を削る芸術家というか挑戦者と違うところです。

管原  とりあえず、皆の行く方向と逆方向に行くことがコツなんです。

島地  そういうのは難しいんですよね。

管原  私は子供の頃から、そういう性質で。皆が西に行ったら東に行くみたいな。未だにそういう路線をやっております。

島地  でも、高校時代に古藤先生に出会って、音楽に目覚めて、早稲田に入って、ジャズをやって、それでプロの世界にも行ったんでしょう?

菅原  一応プロになったんですけど、上手い人はたくさん、いますからね。古藤先生からは、音楽というより、純粋ということを学びましたね。世の中にこんな純粋な人がいるのかと思いましたね。

島地  古藤先生、いい顔してましたからね。高校時代、いろんな先生に教わりましたけど、面白い先生がいましたね。今もいますかね。個性的な先生・・・。

管原  校長先生はたまにベイシーで、コーヒーを飲んでいきますけどね。

島地  今も先生はあだ名で呼ばれてるんですか?

管原  呼ばれてます。伝統なんですね。それが、いいですね。

島地  愛称ですよね。あだ名で呼ばれるのは・・・。考えるとすごい先生がいましたよね。英語の柳瀬先生には一番、影響されたんですが、集英社に入った時「今度は私が一杯」と、居酒屋に行って、呑んだこともあります。あの先生も早稲田だったかな。

管原  柳瀬先生はブラスバンド部の顧問だったんですが、一番良かったのは私の言うことに何も文句、言わなかったことですね。

島地  ははははっ。

菅原  好きだったら、自由にやれ、と。

島地  その頃から、リーダーだったんですか?

菅原  どこに行ってもリーダーをやらされたね。中学校の時にハーモニカクラブのリーダーをやって、高校ではブラスバンドのリーダーを・・・。早稲田ではハイソサエティ・オーケストラのリーダー。何か、割りと恐れもの知らずで、今は一人でこっそり・・・。

島地  はははっ、二人でオリンピックまで、頑張ろうと言ってましたが、ちょうどベイシーは50周年なんですよね。

管原  今、45年目なんで、オリンピックの年はちょうど50年なんですよ。50年やったから、まあいいか、と。

島地  もっと、やってくださいよ。二人でリニアモーターカーが走る2027年ですか。その時までやりましょうよ。一緒に乗って、やめましょうよ。名古屋で一杯呑んで。

菅原  我々が心酔していた人を振り返った場合、殺伐たる光景が広がっていまして、我々の力不足なのか・・・。我々を褒めてくださる人も、いるかいないか・・・。消えてってしまう・・・。

島地  人が本当に死ぬということは、誰の口にも上らない・・・。それが本当の死です。いずれ、我々も含めて、名前も忘れ、存在も忘れ・・・。それが本当の死です。私の師である、今東光、柴田錬三郎、開高健、この三人を全く知らない若者もバーに来るんですが、せっかくだから、上野にある今先生のお墓をお参りしていったらいいよ。必ず何かあるから、と言ってます。実は月一回、神戸に住んでいる若者が舌ガンで二か月後に手術するんで、「しばらく来れないよ。今度来ても、もう喋れないよ」その男は酒を呑み、葉巻を吸います。「もし、そうなっても見捨てないでください」「何、言ってるんだ。絶対に治るように祈ってるよ。ただ、一つだけお願いがある、帰りしなに上野寛永寺にある今先生の墓参りに行って、心からお願いして手術しなさい」それから、三、四か月後に戻ってきて、「先生のおっしゃる通りでした」5キロ位太って、ステージ1だったことも、ありますが、今、サロン・ド・シマジで酒を呑んで、葉巻を吸ってます。「この世には神様がいます。私をえこひいきしてくれる神様が・・・。私を罰する神様はいません」このように真剣に祈ると、そういう効果があるんです。これは朝日新聞にも書かれましたが、伊勢丹にあるサロン・ド・シマジはニューパワースポットと呼ばれてます。面白いでしょう?九か月ほど、やった頃に、本当に知らない男と女がめぐり合って、結婚して子供もいるんです。すごいのは伊勢丹の写真館で親子三人で写真を撮って、私のところに挨拶に来ました。三年もやってると、いろんな事が起こります。一人でも人口を増やしたのはすごいことです。(笑)

菅原  たしかに、すごいパワーだ。(笑)

島地  私が三か月に一回、一関に帰るのは正二さんと本当に深い話を深夜の1時頃まで、ぼそぼそと話してます。

菅原  島地さんがベイシーに来ると、全国から島地教の信者が集まってきて、大騒ぎなんですよ。この間は一週間にわたって、どんちゃん騒ぎで・・・。それを島地あらし、といいます。(笑)みんな、名刺を作ってるんですよ。剣道七段の方は「島地勝彦 公認 護衛官」(笑) 

島地  「島地勝彦 公認 執事」とか、みんな勝手に名刺を作って・・・。宗教化してるんです。モスク化してるんです。(笑)そこへ、正二さんがやってきて、二人でぼそぼそと。

菅原  見るからに怪しい。(笑)

島地  ただ、私は元気が正義だ、ということを若者に教えたい。その他の正義なんて、この世に絶対ないです。「天皇陛下万歳」と言って死んだのは、全くの誤りであって、絶対に人生は元気だということ、それ以外には何もありません。あと、もう一つ、今先生がお亡くなりになる前に書をいただいたんです。最後の絶筆です。遊戯三昧(ゆげざんまい)という言葉です。これは新宿のバーに飾ってあるんですが、この遊戯三昧という言葉ですが、天台宗で一番、難しい教えなんです。遊びの中に真実がある。正二さんを見てると分かりますね。(笑)

菅原  何か面白いことはないかと、そればかり考えてます。それ以上の野望というものが、全くなかったですね。そんなものです。

島地  私が一関に行ったのは、戦争で一家で疎開したんですが、正二さんは先祖伝来、一関にいて・・・。これは正二さんから聞いたんですけど、戦争の時代、三歳か四歳の頃、サーカスのライオンの肉を食べたことがあるそうです。話してくださいよ・・・。

菅原  上野動物園でもあったそうですが、ライオンが檻から出ると危険なので、猟友会で射殺することになって、私の祖父に話が来たそうです。じいさんは「撃つのが嫌だった」って言ってましたね。檻の中にいるのを撃つというのは・・・。まあ、戦時中だったので、その肉は無駄にはしなかったという。こういうオチがつきます。

島地  ライオンの肉を食べた人って、そうそういないと思いますよ。

菅原  渡辺貞夫さんにその話をしたら、俺、アフリカで食ったよ、と。

島地  そうなんです。私がライオンの肉を見たのはベルリンのデパートの地下一階に行きますと、ライオン、豹の肉が売ってるんです。一緒に行った通訳兼ドイツの留学生で、「島地さん、これライオンの肉ですよ」というので、「食いたい」と言ったら、でも、「ホテルでどうやって食べるかな」と。姿形は見ました。

菅原  ヒグマの刺身を食べたとか・・・。

島地  ヒグマは刺身かステーキですね。北海道の山の中で漁師が一か月かけて、一年に一頭、撃つかどうか。私はヒグマの全部位の肉を譲り受けて、食べました。一番、上手いのは左の腿ですね。油が三分の二、身が三分の一しかない。この脂身の中に何とすもも、クヌギ、栗、どんぐりの香りがする。獰猛な生き物ですけど、植物しか摂取しない。2000メートルの山に住んでますからね。鮭を食べるのは俗な熊ですよ。里山に降りてくるような熊です。崇高な熊は植物しか食べないんです。

菅原  島地さんが一関に帰って来た時に、富澤という美味しい魚屋さんがあって、本マスが入ったんです。島地さん、一関にいる一週間、毎日、富澤に行って本マスを食べてたんです。私らが行ったら、島地さんに食べられて品切れです。と。(笑)

島地  大型連休の後に現れる宮古の本マスが上手いという。なぜ私がこれを知ったかというと、いろんな作家と料亭に行って、「この本マスはどこから仕入れたの?」と聞くと、「宮古です」と。毎日、食べても飽きない。サケと違って品がいい。

菅原  本当に毎日、行ったんですよ。島地さんの講釈を聞きながら食べると、なんか美味しいですね。

島地  ぜひ皆さん、富澤の本マスを食べてください。それで、安いんですよ。料亭では一万円ぐらい、するんですが、富澤では800円。

菅原  それを知ってるから、余計おいしく感じるわけ。(笑)後で冷静に考えたら、「これ昔から食べてたよ」って。(笑)と、いうわけで、話は尽きないですね。

島地  ええ、この続きは一関でやりましょう。

菅原  あまり有意義な話はなかったですね。本当はいろいろ、あるんですけど・・・。(笑)

島地  我々は水商売ですから、夕暮れと共に、面白くなっていくんです。一関に帰省の際はぜひベイシーに立ち寄って、素晴らしいスピーカーでジャズを聴いてください。

菅原  まだ頑張って、やってますので。

島地  一関が誇る文化遺産です。いえ、世界遺産です。

司会  この続き、第二弾の対談はあるか、ないか・・・。皆さん、どうか楽しみにしていてください。それでは今日はどうも、ありがとうございました。 

2015年9月23日

WATOのおむすびラヂオ・7月31日放送

◆FMあすも 毎週 金曜日 19:30~19:55
◆パーソナリティー WATO
◆ゲスト 一関きらり☆メッセージ実行委員会 牧 和彦(マキ)


WATO- 今まで何人の方にインタビューされたんですか。
マキ 10人ぐらいでしょうけど、まだまだ手が足りないぐらいで、次から次へと若手が。
WATO- 発掘。
マキ 発掘ですよ。
WATO- そうですよね。きっと1人会えばまた紹介で、あの人も、あの人もって。
マキ そうなんですね。アニメーターって、マジシャンの人はもちろん、個人的に知り合いがあったんですぐにアポを取りましてですね、できてですね、あと、その内に一関の、ええとですね、一高の同窓会みたいなのに行ったら、そこでまたやっぱり、いろんな先輩にすごい方が居るというんで。
WATO- 年代いろいろの同窓会ということですね。
マキ そうです。一応、一高出身者、OB、全員そうですね。そうすると、島地勝彦さんという、プレイボーイの伝説の編集長がお店をやっていらっしゃるというので、サロン・ド・シマジという、新宿の、伊勢丹のほうの。で、そこに行ってですね、そしたらまた、そっからが広がり始めてですね、肉屋格之進の社長さんとか、菅原正二さんとか。そっから私に来て、今この目の前にいらっしゃWATOさんとかですね。
WATO- そうですね。私、見つけていただいて。
マキ すみません、そうですね。それから、もう僕は会ってないんですけど、プロレスラーの方が非常に多いんですね。一関、3人居るんですね。
WATO- すごいですね。みちのくプロレスみたいながあるってことでことですか。詳しくないですけど。
マキ それか、柔道で三船久蔵って人が居るんですよ。今は中国で、伝説と言うか、一関ってその方がいらしたという、もともと久慈出身の方なんですけど、一関に来られて、ちょっと住んでた所があってですね、その影響なのかもしれませんけど、柔道みたいなのが強くあるんですよね、一関。強いのが。その延長で、プロレス。
WATO- プロレス。体をはる系が得意なんですかね。
マキ 分かんないけど。勝手に解釈したらいい。で、フリーダムズっていうプロレス団体があって、そこの代表のササキタカシさんっていう、この方は1年に1回必ず一関に、9月頃に来て、プロレスの準備をしますね。
WATO- そうなんですか。
マキ 一関の二高出身ですね。その二高出身で、後輩が石川修司というのがプロレスラーで来て、リズム食堂の長男の。
WATO- ええ、しまじろう。
マキ しまじろう。奈良のドラゴンヘッドのヤマト選手が来て。
WATO- 込みますね。 
マキ びっくりしましたね。ええ、みたいな感じですね。出てきてですね、で、そうなんですよ。だから、どっかから俺たちもいずれはインタビューしたいと思ってるんですけどね。あとは、イラストレーターで言うと、なかだえりさん。一高の後輩ですね。もちろんWATOさんもですね。
WATO- ちょっとだけ絵も描きます。
マキ いや、うまそうですね。
WATO- なんか、私も高校終わってすぐ東京に行ってきてしまってるので、実際でも東京に居てもなかなかマキさんのように偶然一関の方に出会う確率はそんなに高くないので、一体どんな方が来ていて、どういう活動されているかっていうのを知る機会がなかったので、このブログを、マキさんがやられているブログを拝見して驚いたんですけども、いろんなジャンルの方、いらっしゃいますね。
マキ そうですね。あのー、アイドルの方が出てですね。
WATO- アイドルもさっき見せていただいた。かわいい子が。
マキ 小松彩夏さんって、セーラービーナス、セーラームーンでビーナスの役やられた方とか、一関二高出身かな。あとはそうですね、志田友美さんとか、仮面ライダー鎧武でヒロインやってる子が、この夏角川映画で準主役を。
WATO- あ、すごい。
マキ 脳漿炸裂ガールというね。なんたってすごい。脳漿炸裂ガールですよ。
WATO- うえーですね。
マキ すごいですね。
WATO- マキさん、この書かれているブログはどんな方に一番読んでもらいたいかっていうのはあるんですか。
マキ 一番読んでもらいたいのはやっぱり一関の方ですかね。一関の市民の人に、やっぱり一番、自分たちの地域で、こういうがんばってる人が居るんだよと。あまり調べてないんですよね。またみんな、シャイって言うかな、シャイな人が多いんですよ。あんまりね、自分で発信しないような人が多くてですね。「出身地は?」って言われると、「ああ、岩手です」みたいな。「特に?」「いや、岩手です」みたいな感じでね。
WATO- 確かに。まず岩手と言っちゃいます。
マキ で、「ああ、震災大変だったでしょ」みたいな感じで、なかなか一関出身ってことはみんな言わないんですよね。みんなね、一関出身者、そういう部分で、一関の出身はこれでがんばってと言うかな、人が居るんだということで、何て言ったらいいのかな、世界遺産みたいなのありますよね。
WATO- はい。
マキ 今度、釜石が世界遺産になりましたけど、平泉の世界遺産。そういう建物を世界遺産ではなくて、人間が一番の世界遺産だと。生きて、今歴史をつくっている人間こそが一番の世界遺産なんですよ。で、この人たちの応援というか、支援みたいなのは、これは一関としてやっていかなくちゃならないと思うんですよね。そういうふうな意味も、勝手な話も失礼しましたけど、そういうふうなことをですね、例えば、そういうふうな一関出身の方のことを知っていただきたいというのがあってですね、このブログをつくって発信しているというのが、そこがこのブログの意味合いと言うか、なかなかうまく言えないですけど、そういうふうな思いですね。
WATO- なんか、紹介した方と今実際一関に住んでいる方が、直接つながれれるような場所とか、企画もあるときっといいでしょうね。最初、見た人が自分もがんばろうっていう意味合いが強いのかなって思ったんですけど、今の感じだと、応援するっていう役割もすごくあって。
マキ そうなんですよね。
WATO- で、触れ合える機会があるとよさそうですね。
マキ そうですね。このブログに取り上げられた人たち同士の交流もあるといいと思うんですよ。取り上げられたの、アイドルで、さっき言った小松彩夏さんとかは、やっぱり知らなかったんですよね。志田友美さんのことは。同じ一関出身で知らなかったのを。
WATO- アイドル同士でも知らなかったんですね。
マキ 事務所違うし、年もちょっと違うと。でも、ちょっと僕のブログを見てもらって、それで志田さんと、今、ツイッターとか何とかで知り合って、話したりしたりとか。これはアイドル同士ですけど、全然、異業種、プロレスラーとマジシャンが一緒になるとか。
WATO- うんうん。そうですね、新しい何かが生まれそう。
マキ ね。フードコーディネーターの方とマジシャンが一緒になるとか、全然、何かを生み出していければなとも思いますしね。
WATO- 今取材されてきた方の皆さんは、一関に対して、何か考えてることはあったりしますか。
マキ はい。やっぱり、みんな恩返しっていうのがありますよね。今の自分があるのは一関の風土と言うか、歴史とか風土とか、もちろん教育とか、そういうのがあって今の自分が出来上がったと。だから、震災が一つの契機だとは思いますけど、それを契機にして一関に恩返しみたいなのはしたいなとは、それはみんな口々に言ってますよね。
WATO- 郷土愛、みたいなことですね。
マキ そうですね。とは言え、やっぱりなかなか、行政みたいなのがちょっとここで主導して行かないと、なかなか個人でやるのにも、お金がかかるというのは変な言い方ですけど、ありますので、何か、このラジオ聴いてる行政の方、ぜひとも、ちょっと考えていただけないかな、なんて思いますよね。
WATO- ロイターマキさんが企画書を書いて市役所に持って行ったら、企画がとおるかもしれませんね。住んでる人も、離れてる人も、育った場所とか、恩恵を受けた場所として同じ一関市っていうのを思ったら、何かできそうですね。つながりも、人と人とのつながりがね。
マキ そうですね。そうなんですよ。
WATO- じゃあ、今後はもっともっと取材を増やしていって。
マキ ええ、そうです。まだまだこれ途中なので、ええ。恐らくライフワークになるかもしれません。 WATO- そうですね。その間にもどんどんまた若者たちが東京に出てきて活動を初めてってことがあるでしょうからね。
マキ そうですね。
WATO- はい。これって、録音を見るには一関きらり☆メッセージで。
マキ ええ。検索してみればすぐ出ます。
WATO- ぜひぜひ知らなかった方にも広めたいですね。
マキ そうですね。いやもう、本当に。もし、実はこういう人が居るんだよってような。
WATO- ああそうですよ。情報を収集しなくちゃいけないので。
マキ ええ。恐らくいろんな方がいらっしゃると思うので、それはお願いしたいですね。
 WATO- はい。知り合いが東京に出てこんなことしてるよっていう情報、おまつりラジオでもいいですし、メールいただけたらマキさんにお伝えします。何か最後に言い残したこととかあれば。
マキ 一関の文化は、これは大槻三賢人が出たという風土もあるんでしょうけど、非常に学問が好きな人たちが多いんですよ。真面目で。
WATO- 道真の地ですからね。菅原。
マキ そうです。そうなんです。なんですかね、多いですよね。数学者みたいな、田村藩の家老が関孝和の5代目っていうのもあって、数学が非常に盛んだったっていうのも、一関博物館で。
WATO- そうなんですか。勉強してください。
マキ 非常に、そういうふうな町なんですよ。こういう、だから、ここですね。これを発信源として、価値創造という言葉があるじゃないですか。何もないところから何かを生み出すためには、価値を見つけて、それをつくりだしていくという、そういう町だと思うんですよ。この一関というのは。そういうのを、もっとアピールして、今後、一関にたくさんの人を呼べればなと思うんですよね。呼べるというか、人口圏って、今一番問題ですからね。人口が減ってしまうというのが。だから、多くの、一関以外の人間ですね。育った人間以外にも、一関、面白い町だから住みたいな、と思うような町に変えていければなとは思うんですけどね。
WATO- どうやったらはやるんでしょうね。
マキ 一関、難しいですね。これはどうなんでしょうね。価値創造。
WATO- ああでも何か、一つはやっぱり先程から出てきている人かなって気がするんですけど、何か面白そうなことをやってる人が居ると、近寄ってみたくなるので。
マキ 一関はベイシーってい・・・。
WATO- 怪しげな場所がありますけれども。
マキ あれはでかいですね。あそこが中心ですよね。
WATO- せっかくあそこに来た方、ついでに回る場所がもっと増えるといいなっていうのはありますよね。まあ、厳美とかへびとか、自然が美しい場所はたくさんあるんですけれども。
マキ そうですね。もうちょっと面白い場所で見れるようなところがあれば、観光者も楽しいでしょうし。

2015年3月29日

MIST AIさん インタビュー



本日はロックバンドMISTのボーカルで一関出身のAIさんを紹介します。

3月10日のワンマンライブの後、インタビューしました。
ミスチルが好きで、ミュージシャンになったと、前回のインタビューにありました。
ああ、そうですね。初めて買ったCDがミスチルのシーソーゲームでした。
小学校や中学校はどこだったんですか?
薄衣小学校で川崎中学校、高校は前沢高校に行きました。前沢高校は岩手ではバドミントンのインターハイ常連校で、私はバドミントンが好きだったので、前沢高校に進みました。インターハイには出たんですけどね。
すごいですね。
でも、音楽がやりたくて東京の音楽系の専門学校に入りました。最初は一人で、路上ライブをやってたんですよ。
弾き語りですか?
はい、そうです。ギターで弾き語りをしていて、今のMISTのバンドのギターやってる人から、新しくバンドをやるから、ボーカルをやらない? と誘われて、そこからMISTが始まりました。
初めは嫌だとは思いませんでしたか?  
最初は練習だと思ってたんですよ。でも、バンドの方が楽しくなって、しかもCDを出すことになったので、こっちの方がメインになりましたね。もう一人で歌う事はなくなりました。ツイキャスって、ありますよね。あれで、たまに弾き語りするぐらいですよね。
事務所には所属されてるんですか?
預かりという感じですね。do myselfといって、一千枚以上売ると、全国流通、出来るんです。昨年は届かなかったので、今年は二年目ですね。
それは全国のCDショップに置いてくれるということですか?
そうですね。そうなると知名度が上がるんです。
そうなると、いいですね。YOU TUBEでは流してないんですか?
曲の一部は流してますよ。WONDERLAND MISTとかで、検索してもらえると出ますよ。
よく分からないのですか? MISTが結成されて何年目なんですか?
四、五年目ですね。ソロ活動を三年やって、それからずっとMISTですね。
一関市のコミュニティラジオ、FMあすもで番組を持ってますよね。
ええ、MISTEC RADIOですね。
火曜日の朝九時からですから、なかなか聞けなくてすみません。
朝、早いですよね。(笑)
どうして、ラジオの話が来たんですか?
以前、FMあすもさんに出演した時に、千葉局長さんと私の父が知り合いで、それでいろいろ話してるうちに、fMあすもさんのイベントに出るようになって、花火大会とか。去年の秋ごろ番組改編があって、番組をやりませんか、と言われて。ですから、あすもさんのイベントには、よく出ていますよ。
今度、番組に呼んでください。(笑) 一関出身のクリエーターの方にインタビューしてるんですが、一関市民には知名度がなくて、ですね。
ツイッターの一関きらりメッセージで佐藤正樹さんがアニメーターなので、私たちの曲をアニメに使っていただけないかなと思いまして、連絡した事があります。
そうですか。彼はトムス・エンタテインメントのチーフ・アニメーターですから、いい返事があるでしょう。
それと私たちのミニアルバムの制作に携わっていただいたサウンドプロデューサーの方が最後の曲のダリアをオーディションに出してみない、という話がありまして、その曲も佐藤さんに聴いてもらえないかと思いまして。
知りませんでした。そんな話があったとは・・・。あの、きくち伸って、知ってます? フジテレビの音楽プロデューサーの去年、FNS音楽祭のチーフ・プロデューサーをやったりしたんですが。
知ってますよ。
彼も一関出身で一関一高で私の同級生でした。
ええっ!
一関きらりメッセージを私と一緒に運営している熊谷ときくちさんが仲が良くて、正月に会ったりしてるらしいんです。二人とも千厩ですから。
そうなんですか。(笑)
今度、彼にもインタビューしようと思うんです。その時にはMISTさんの話をしようと思ってます。
ぜひ、お願いします。
今後の目標とか、ありますか?
四月に一本だけ、ライヴをやって、五月は地元のイベントとライブを中心にやります。後はミュージック・ビデオを撮ろうと思ってます。そのための楽曲製作をじっくり、やっていこうかなと思ってます。まだ集客力が弱いので・・・。今、ネットがメインの社会になってるじゃないですか。そういった所から責めていって、実際にライブにも来てほしいです。ミュージック・ビデオの仕事などをしながら、オーディションやライブの仕事をしたいですね。東北のツアーにも行ったんですよ。
FMあすもさんのイベントもやってますものね。
旧ダイエーの前でコンサートをやったり、花火大会のラジオの中継でライブをやらせていただいてます。
ご両親の反対はありませんでしたか?
ありませんでしたね。自分で決めたんなら、やりなさい、と。学費も自分で出しましたから。
えらいですね。
自分でやりなさい、と言われたので。(笑)
最後に一関の方たちにメッセージをお願いします。
いつもMISTのライブに集まってくださったり、MISTのラジオを聴いてコメントをくださってる方たちに・・・。一関市の皆さんがいたから、私が今、東京でがんばれています。わざわざ一関から東京にライブを見に来てくださる方もいるんですよ。すごく、嬉しいです。
一関在住の方がですか?
ええ、そういった人たちに感謝しながら、これから歌っていきます。また、一関の皆に私の元気やメンバーの元気を届けたいです。もっともっと有名になったら、私が一関への恩返しとして、一関を広めていきたいな、と思ってます。これはメンバーも同じ考えです。
今日はどうも、ありがとうございました。
こちらこそ。
















2015年3月23日

島地勝彦さん インタビュー

本日は元週刊プレイボーイ編集長、集英社インターナショナル社長、現在はエッセイスト&バーマンの島地勝彦氏を紹介します。


〈経歴〉
東京都奥沢に生まれ、四歳で一関市に疎開、中里小、中里中、一関一高、青山学院大学
〈著書〉
 『甘い生活』 講談社
 『えこひいきされる技術』 講談社
 『乗り移り人生相談』 講談社
 『愛すべきあつかましさ』 小学館
 『人生は冗談の連続である』 講談社
 『知る悲しみ』 講談社
 『はじめに言葉ありき おわりに言葉ありき』 二見書房
 『お洒落極道』 小学館
 『異端力のススメ』 光文社文庫
 『迷ったら、二つとも買え!』 朝日新書
 『バーカウンターは人生の勉強机である』 ペンブックス
 『蘇生版 水の上を歩く? 酒場でジョーク十番勝負』 CCCメディアハウス



よろしくお願いします。

こちらこそ。

島地さんは一関一高時代、作家の山川修一さんと同人誌を作っていたと、聞きました。

ええ、彼は私たちより四、五歳上でね。大人でしたね。

四、五歳上?

身体を壊していたんじゃないかな。それで、進級が遅れたんですね。

どんなものを書いていたんですか?

小説ですよ。ふふっ、恋愛小説で、ガリ版刷りで印刷して本にして売ってましたよ。

売っていた? お金はどうしたんですか?

全部、呑んでしまいましたよ。

これは個人的に聞きたい質問ですけど、週刊プレイボーイに本宮ひろしさんの『俺の空』という作品がありましたよね。旧制一高の格好で日本中を旅するという漫画ですが、島地さんのアイデアだったんですか?

その作品が終わった頃、副編集長になりましたからね。ノータッチですよ。ただ、本宮さんとは仲が良くて、週刊プレイボーイに俺の空 番外編」を頼んだら二つ返事で引き受けてくれましたよ。

小峯隆雄さんについてもうかがいたいのですが。

内藤陳さんの深夜プラスワンというお店が新宿ゴールデン街にあって、私の隣で呑んでたの。面白いやつだと、編集部でバイトに雇ったんですよ。今、つくば大学で非常勤講師をやってます。どうやって潜り込んだんだろうね。(笑)

つくば大学、優秀ですね。小峰さんは週刊プレイボーイの編集者というのを前面に押し出したタレントでしたが、島地さんのプロデュースだったんですか?

いや、違いますね。11PMやオールナイトニッポンに出てましたが、そこ止まりでしたね。もうちょっと、上に行くと思ったんですが。(笑)

いえいえ、私は小峰さんの大ファンでしたよ。オールナイトニッポンは、よく聞いてました。(笑) ところで、一関一高時代の武勇伝を聞きたいのですが。

高校二年生の時から、バー通いをしていました。そうしましたら、一関一高の校長に怪文書が出回りましてね。島地がバー通いをしていると・・・。

それは大変だったでしょう。

ええ、大島先生に呼ばれて、「君はバー通いをしているそうじゃないか。もし本当なら、退学か転校だな」みたいな事を言われて。その時はシラを切りましたよ。証拠がないんですから・・・。その時、私の父は一関小学校の先生をやってたんですよ。それで、大島先生に「考えてみてくださいよ。私の父は小学校の先生ですよ。バーに行くお金なんて、ないですよ」って、言ったら、それもそうだなって、納得してくれて、『不問に付す』と。それが、現在はバーマンになってるんですから、面白いでしょう。その十年後ぐらいに同級会があって、大島先生は県の教育委員長になられてて、その席上で「君は本当はバーに行ってたんだろう」「いえ、ただの風聞です」と・・・。大島先生は、まだ覚えてました。私が思うには、大島先生は知ってたんだと思いますよ。それでも、知らないふりをしてくれて、感謝しています。それが一高時代の最大の思い出ですね。ただ、一高時代は文学青年で本ばかり、読んでました。

私と一緒ですね。

サマセット・モームの全集を持っていて、全巻、読みました。非常に影響されました。あの皮肉っぽいところが・・・。

私は『月と六ペンス』読みました。

そうですか。六ペンスは指輪にしてます。ペンダントは二千三百二十年前のアレクサンドロス大王の銀貨です。国を征服すると、兵隊に給料を渡すために作ったお金です。シリアの砂漠でアメリカの有名な考古学者が、この銀貨を見つけたんです。あまりに綺麗だったので、本当はミドル・ピース以上は献納しなくてはいけない決まりになってるんですが、一個位いいだろうと、ポケットに入れて持って帰ってきたんです。その考古学者の息子が考古学にあまり興味がなくて、父親が亡くなった時に、その銀貨をネットオークションに出したんです。私のファンがそれを落として、持ってきたんです。『アカの他人の七光り』という私の著書にアレクサンドロス大王の伝記を書いていますが、それをその人が読んで私が持っているより、島地さんが持っている方がいいでしょうと・・・。私が死んだらお返しします、ということで永久貸与です。このネックレスが月で、指輪が六ペンスという見立てです。他にはバルザック、スタンダールとか、読みました。

スタンダール、『赤と黒』ですね。

その『赤と黒』を夜の二時頃、読み終わりまして、その頃は一関駅前に住んでいて、「この街にはレナール夫人は、いないなあ」と、叫びながら、歩いたのを覚えています。(笑)私は高校時代、原書で読めるぐらい英語が得意でして。柳瀬という英語の先生がいたんですね。その先生に影響されて、いろんな本を読んでいたんです。一関一高は私にとっては、青春でしたね。

スポーツはやられていたんですか?

いえ、全然・・・。部に入って、先輩、後輩といったものが苦手でしてね。

大学は青山学院大学ですよね。そこでも、スポーツはされなかったんですか?

ええ、全然。スポーツらしいことといえば、私は二十五で編集者になりましたが、担当になった柴田錬三郎さんにゴルフをやれ、と言われて、ゴルフを始めたぐらいですね。

そうですか。伊集院静さんが、島地とゴルフをやって賭けたら、島地の右に出るものはいないぞ、とか何かの本に書かれていましたが・・・。


伊集院さんがオーバーに書いているだけで・・・。それに私にギャンブルの才能はありません。


ギャンブルはされた事はないんですか?

編集部は皆、ギャンブルをやりますよ。オイチョカブ、ドボン、麻雀・・・。私は柴田錬三郎さんの担当になった時、京都の偉い易者に運勢を見てもらったんです。その頃、私は歌がダメだったんですよ。流しがギターを弾きながら、それに合わせて歌を唄う、今でいうカラオケみたいなものが、呑みに行くとあったんです。編集長になると「お前、歌え」と言って、歌わなくていいんです。それで、早く編集長になりたくて、占ってもらったら、「あなたは十分編集長になれるし、社長にもなれる。ただし一つ条件がある。今日からギャンブルをやめなさい」それ以来、ピタッとやめましたよ。そうしたら、週刊プレイボーイ、月刊プレイボーイ、Bart、三誌の編集長になりましたし、集英社の関連会社ですが集英社インターナショナルの社長にも、なれましたその易者の言うことは当たっていましたね。人生は運と縁とセンスですよ。

努力、根性、ではなくて・・・。(笑)

いやいや、運ですよ。まあ、毎週、五十二、三万の部数だった週刊プレイボーイを百万部にしたのが、私の唯一の功績ですね。

実は私、高校を卒業した後、国鉄に行きまして、車掌になって、盛岡、青森間を行ったり来たりしてたんですよ。キヨスクに週刊プレイボーイが売られてまして、乗務するたびに、それを買って帰るのが楽しみだったんです。

私が編集長をやっている時ですか?

まさにその時期です。百万部の読者の一人は私なんです。

はははははっ、そうですか・・・。

くだらない企画がたくさん、ありましたよね。(苦笑) 五月みどりさんとか・・・。

はい、五月みどりさんが童貞と混浴するという、『童貞混浴セミナー』ですね。

よく五月みどりさんがOKしましたよね。

私が口説いたんですよ。でも、最初は水着で入ると思ったんですよ。そうしたら全裸で入ってくれましたよ。

そうだったんですか?

ええ、そうですよ。連載は五回ぐらい、やりました。毎週、三千通ほど、全国の童貞の方から応募があるんですよ。学生が多かったですね。学生を読者に取り込んだことで、部数が百万部になったんです。我々のコンセプトは話の分かる兄貴になろう、ということでした。良いことも悪いことも、面倒をみようと・・・。それが成功したんですね。

私も大いに勉強させてもらいました。(笑)

ハハハハハッ、東大法学部で童貞という学生が応募してきて、いずれ裁判官になるから採用すれば、将来、週刊プレイボーイに何かあったら、惻隠の情で助けてくれるんじゃないか、というので、採用したこともあります。『小泉今日子さんのヌード以上』という企画もありました。

私はその企画に騙されましたよ。(笑) あの頃、いろんなアイドルが脱いでましたから、とうとうキョンキョンもやっちゃったか。まあ、篠山紀信あたりが口説けばヌードになるのかな、と。袋綴じのグラビアに小泉今日子のヌード以上の写真があるというので、開けてみると小泉さんのレントゲン写真・・・。(笑)

あなたも騙されましたか・・・。(笑) 後は『頑張れ平凡パンチ』ですか。

はい、週刊プレイボーイのライバル誌の平凡パンチがどんどん部数を減らしてきて、それにエールを送るという内容でしたけど、自慢話とホメ殺し・・・。(笑)

私はハスに構えて記事を作るという事を部下に教えましたね。四つに組むなと・・・。それが週刊プレイボーイ・ジャーナリズムです。今の週刊プレイボーイは全然ダメです。マジメ過ぎて、ユーモアがない。ユーモアが大切なんですよ。グラビアも大した事がない。AKBとか集団でしか発信できない。昔は浅野ゆう子とか、いましたよ。

時代が変わったんですかね?

時代も変わったし、編集者も試験が難しくなって、優等生しかいなくなりました。

天下の集英社ですからね。

私が入社した時は百五十人位でしたが、辞めた時は八百人、それ位、隆盛を極めましたね。漫画で大きくなったんですよ。

少年ジャンプですね。実は以前インタビューした佐藤正樹というアニメーターが、スラムダンク、キン肉マン、北斗の拳など、少年ジャンプの漫画のアニメの総作画監督をしてるんです。一関って面白い街でしょう? いろんな才能が出てるんですよ。

やはり一関は学問の街なんですね。大槻三賢人を輩出してますし、和算の街でもあります。

一関藩の家老が算聖、関孝和の関流算術の第五代目ですからね。

ベイシーの菅原正二を生んだだけでも、凄いよ。(笑)

たしかに菅原さんは疎開ではないですものね。

私は疎開ですよ。小学校に入る前に一関に来ましたからね。純粋な一関人ではないんですけど一関を愛してますよ。一関にマンションも買いましたから。

NHKのBSで『全身編集長』という、島地さんを主人公にした番組がありました。

プロデューサーが私の編集長時代の週刊プレイボーイのファンで、どうしても私を番組を作りたいと、言われまして。でも、テレビはこれでおしまいです。テレビは所詮テレビですよ。私は自分の書いた文章のファンになってほしいんですよ。ゴーストライターも使いません。私独特の味が出ませんから。

PENの連載は私も読んでます。今回はマッカーサーの話ですね。

この連載の特徴は有名人の葬式に行って弔辞を読んでるんですよ。チャーチルとか、藤田嗣治とか・・・。私は藤田嗣治が大好きでね、ここにも一枚猫の絵がありますけど。ファンの方が持ってきたんですよ。ファンって、凄いですよ。貢物が多くて・・・。(笑)伊勢丹の社長の大西洋もスーパーバイヤーの藤巻も私のファンでした。それで、伊勢丹メンズ館の八階にシガーバーのサロン・ド・シマジを開業することになったんです。私のファンはコアなんですけど、熱狂的なんですよ。

そうですね。不思議な人生訓というか・・・。

格言好きですからね。

正しいことを言っているのか、間違ったことを言っているのか、よく分からないですよね。

あはははははっ。その通り。でも、一理あるでしょう?私の考えた格言で一番人気があるのは、「男と女は誤解して愛し合い、理解して別れる」というのがあります。次に人気があるのは、「浮気がばれたら、実刑はないが時効もない」浮気がばれると女房に死ぬまで言われないといけない。さる九十三歳の男性の知り合いがいるんです。いつも元気なんですが、ある時機嫌が悪い。「どうしたんですか? 身体の調子でも悪いんですか?」と聞いたら「いや、女房が五十年前の浮気をいまだにグチグチ言うんだよ。こっちはもう、顔も名前も忘れたっていうのに。それで、この格言を考えたんです。その人の女房は八十八歳ですよ。この格言は真理です。女房は戦友ですね。そう思わないと・・・。

たしか島地さんの奥さんは一関出身ですものね。

そうです。古関常夫という一関で助役をやった方がいて、女房はその娘なんです。女房のお兄さんと仲が良くて、妹の面倒を見ているうちに結婚したんです。

集英社で就職が決まった時に同棲がばれて、大変だったとか。

ええ、一緒に住んでいるのを見られて、大変でしたよ。土下座して、集英社に入れてもらいました。ですから、私はいくらかは運があるんです。人生は運と縁です。縁はすごい人がいると思ったら、自分をアピールして仲良くしてもらう。私が現在あるのは、私の本のタイトルにも、ありますが『アカの他人の七光り』ですよ。

あのテレビで見たんですが、娘さんをガンで亡くされてますよね。

ええ、娘が三十六の時でしたね。

何年ぐらい前なんですか?

七年ほど前ですね。まあ、これも運命だと思いましたね。私の文章にもよく書いてますが「人生は恐ろしい冗談の連続である」と。私が編集長になったことも恐ろしい冗談、嬉しいことも哀しいことも、そう思っていれば、間違いないんですよ。人間には生まれた時にシナリオライズされた寿命というものが、あります。

そうですか・・・。あの一関にメッセージをいただきたいのですが。

それは、簡単、私の著作を全部読んでください。そこに私のメッセージがあります。後は新宿伊勢丹メンズ館八階にあるサロン・ド・シマジに来ていただければ、私が直接、お答えしますよ。(笑)

今日はどうもありがとうございました。

こちらこそ、スランジバー。






2015年3月18日

瞳ナナさん インタビュー

本日は東京で魔女軍団のリーダーとして、活躍されているマジシャンの瞳ナナさんを紹介します。


山目小学校、藤の園と二回、マジックショーをされた後、藤の園にてインタビューしました。


よろしくお願いします。
こちらこそ。
今日は一関マジッククラブとして、瞳ナナさんを藤の園に呼ばさせて、いただきました。一関マジッククラブ創設者の阿部はもと愛心幼稚園の職員で・・・。
あら、私も愛心幼稚園の出身ですよ。
そうですか。私も愛心幼稚園の出身です。奇遇ですね。簡単な経歴などを、お願いします。
萩荘小学校、萩荘中学校、一関二高、短大と進んで、魔女界に行きました。短大時代は山目(やまのめ)中学校に教育実習に来ましたので、山目とも縁があるんですよ。
何を教えてたんですか?
音楽です。
こんな綺麗な先生だと、びっくりしますね。(笑)
ありがとうございます。(笑)

練習は一日、何時間ぐらいされるんですか?
練習はしてないんですよ。毎日、どこかでやってますからね。寄席がありますから・・・。あと、今日もありましたけど、仕込みがおかしかったので、二回目、ちょっと失敗しました。山目小学校でのショーの後、母に畳んでもらったんです。でも、意外とお客さんって、見てなかったりするんですよ。「何だったのか?」と思いながら、次の現象になってしまいますので。マジックをやってる人は、分かるでしょうけどね。(笑)
毎日の実践が練習というわけですね?
プロになってしまうと、練習というよりはお客さんの前で恥をかきなさい。みたいなところが、ありますね。ずっと鏡の前で練習してると、自分で安心してしまうので、ちょっと練習して、小さな寄席などでお客さんの反応を見て、判断します。プロだと、あまりテクニックを使ったマジックはやらなくなりますね。デパートなどだと、上からも横からも見られますから、安全なネタしか、出来なくなります。営業はどこに呼ばれるか、分かりませんから。体育館ばかりでは、ないですから。
山目小学校でのショーは、どうでしたか?
途中から照明が付きましたけど、暗かったですね。暗いし、広いわで、大変でした。吹奏楽の関係
、だと思いますけど、舞台と観客席の間にブルーシートが置かれていて、お客さんと距離があって、やや一体感に欠けていたかな、と。それにイリュージョンだと、人が浮いたり、剣で刺したりと現象が分かりやすいんですけど、ステージマジックでしたからね。
藤の園のことはご存じでしたか?
こういう所があるとは知りませんでした。ここは落成したのは?
去年ですね。それまでの建物は、震災でかなり、やられましたから。昔は孤児院と言ってました。今は養護施設と呼んで、キリスト教の教えに基づいて、両親のいない子供や、訳あって両親と一緒に暮らせない子供を引き取って、育てています。
私はよく地方に行くんですけど、山梨の小学校に行くと、その両親はほとんど離婚してますよね。工場が多いので、外国の方との結婚が多いんですよ。
日本全国、行かれたんですか?
鳥取、島根、山口、この三県だけ、行ってないんですよ。
なるほど、海外は結構、行かれてますよね。
ええ、アメリカ、香港、韓国・・・。今年はタヒチにも行きました。
一関には、よく帰ってきますか?
今年は呼ばれる事が、多かったので。そういう時にしか、一関には帰ってこれないですね。
一年前、磐井病院でガン撲滅のキャンペーンでマジックショーをやられましたね。願成寺さんが呼ばれたんですかね。
願成寺さんには可愛がって、もらっていますね。落語芸術協会と日本奇術協会に所属させてもらってます。落語芸術協会は国際ボランティアとして、お寺でマジックをすることが多いです。いろんな所のお寺に行きます。いろんな所がありますよ。保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、病院、老人ホーム・・・。大体は企業のパーティーが多いですけどね。忘年会、クリスマスなど。ライオンズクラブとかロータリーさんですね。
老人ホームでウケるネタって、大変ですよね。
そんな事はないですよ。ただ、感情を表現しにくいので、泣いて喜んでくれたりですね。それと老人ホームのランクにもよりますよね。前にあったんですよ。かなり弱った方がいる所ですと、演じている私の方が悲しくなってしまって。
でも、毎日やってると大変ですよね。
今日みたいなステージマジックだといいですけど、イリュージョンだと、たんすみたいな物を組み立てる所から始まってしまいますので、重労働です。毎日が引越し屋さんみたいなものです。鉄骨みたいな物ですよ。人が乗ったりしますからね。今日のはスーツケースで移動できますけど・・・。イリュージョンの方は年を取ったら出来ないのかな、という感じはしますね。
師匠の北見伸さんは、どんな方なんですか?
修行中とかは厳しかったですね。私は一人っ子だったので、あまり怒られた事がなかったんですよ。職人気質の先生でしたので、マジックの事は当然として、マナーとかを教えてもらったり、後はやれと言われた事をやってなかったり、人間だから忘れる事もあるじゃないですか。そうすると怒られたり。でも、親みたいな感じですよ。東京にいる時に、ずっとお世話になっていたりするので。そういう厳しい人って、本当は、優しかったりするんですよ。それはずいぶん感じました。普段、「やってあげるね」なんて、優しい人は実はそうでもなかったり・・・。テレビ局に行っても、感じ悪いなと思う人に限って、ちゃんとしてくれたり。そういう事は世の中、あるんですよ。
社会に出た時に優しい人に頼るのではなく、厳しい方につくと、最終的にその人が助けてくれるということがありますね。
厳しい人ほど、その裏に優しさを持っているのかもしれません。
なるほど、ご両親はこういう世界に入ることを反対はしなかったのですか?
母は短大に入って、こういう世界に進むと言ったら、胃に穴が開くほど悩んだそうです。親の死に目にも会えない世界だと聞いてましたが、祖父の亡くなる時も仕事でした。通夜には出席しましたが・・・。
瞳ナナさんが入られた時には、魔女軍団に先輩がいたんですか?
その時は魔女軍団ではなかったですね。マジカル・ダンサーズといって、北見伸先生のアシスタントでした。
ところが女性マジシャンが必要な年代があって、男性の宴会があって、女性マジシャンが欲しい、ということになって、私が第一号ですね。先輩のダンサーで、私がマジックをやるようになって、マジックを始めたのがマジック・ジェミーさんですね。今日、実は一関に来てたんですよ。
来てた?
花泉の金沢(かざわ)で寄席があって、同じ時間帯なので、どうしても一関には行けない、と。そういう事もありますよね。
実は一週間ほど前に仕事で身延に行った時に、身延町立図書館に、いっこく堂さんが来て、そのゲストマジシャンが魔女軍団のここあちゃんで、こんな田舎にまで来るんだ、とびっくりした事があります。
どこでも呼ばれればですね。田舎に行くことが多いですね。芸能をあまり見たことのない地域に・・・。あと、今は復興支援で行きますね。国から助成金がありますから。宮城県が多いんですよ。なかなか岩手県はないんだな、と思いながらですね。
福島はないんですか?
福島は昨日あったんですよ。それがいろいろあって、新幹線に乗り遅れたんですよ。一時間に一本なので、それに乗らないと間に
合わないんですよ。そうしたら、私と同じように乗り遅れたおじさんがいたんですよ。タクシー乗り場で「郡山までタクシーか」と私がブツブツつぶやいていたら、そのおじさんが、「よかったら、タクシーに一緒に乗ります?」と言ってくれて、一緒に郡山まで乗って、料金はそのおじさんが払ってくれたんですよ。
美人は得ですね。(笑)
魔女も乗り遅れる事があると・・・。(笑)
ほうきに乗っていくわけにも、いきませんしね。
今朝、寝たのが12時過ぎでしたから、山目小学校に来ても眠かったですね。
ハト出しをされてましたけど、ハトは連れてこられたんですか?
はい。今、まだ上にいるんですよ。
羽は切っているんですか?
そんなに切ってはいないですよ。毎日、同じ事をやってるから慣れてるんですよ。事務所に六羽いるんですよ。比較的大人しい仔を連れてきました。
長生きするものなんですか?
そうですね。十年ぐらい。負担をかけない仕込みにしてるんですよ。飛行機に乗る以外は持ち歩いてますね。一羽ぐらいなら。
以前、テレビでお部屋紹介みたいな番組があって、瞳ナナさんのプライベートルームが映し出された事がありました。部屋中ピンクでしたけど、あれは本当なんですか?
お姫様ベッドがあってみたいな・・・。(笑) 本当ですよ。ピンクが好きなんですよ。
一関出身のアイドルの方って、結構いるんですよ。セーラームーンでセーラーヴィーナス役を演じた小松彩夏さん、山目小学校、山目中学校出身で仮面ライダーのヒロイン役を演じた志田友美さん。会った事はありますか?
知ってますよ。お会いした事はないんですが。
こういう人たちとコラボでショーみたいな事は出来るんですかね。
面白いですよね。やってみたいですよね。
事務所がうるさいとか。
うちは大丈夫ですけど、他はどうかなと。
それと一関二高出身でプロレスラーの佐々木貴さんという方がいます。フリーダムズという団体の代表なんですが。
あまり、プロレスは詳しくありませんが・・・。
以前、プリンセス・テンコーさんが新日本プロレスの選手紹介でイリュージョンをした事があります。空のケージから選手が現れるという。
登場も芸能人から依頼される事がありますよ。練習出来る人か、出来ない人にも、よるんですけどね。狭い所が嫌だと言われれば、もう無理なんですけどね。女子ゴルファーのトップの人たちを出すというのはありました。みんな、お金持ちだから、嫌だと言うのかと思ってましたけど、上から言われたためか、ツンツンしながらもやってくれましたね。よく会社のパーティーで社長を出してくれ、という依頼がありますけど、「暗闇で耐えられますか?」 ということは聞きますね。あと、花嫁さんを出してくれ、というのもよくありますが、これは断ってますね。ドレスを着てますし、綺麗にセットされた髪などがぐちゃぐちゃになったら困りますからね。ステージから作ればできるでしょうけど。
せっかく、地元出身ですので。
そうですね。全員の方とお会いしてみたいですね。
私のブログを読んでもらえると、一関出身者のブログやツイッターが網羅されてますので。
はい、読んでみますね。
あと、山上兄弟はどんな感じなんですか? テレビで喧嘩されてましたけど。
あれは全部テレビ局のヤラセです。「泣いてくれ。喧嘩してくれ」と
。仲はいいんですけど、泣いてるシーンが撮りたい。だから喧嘩してくれ、と。もう、テレビはあまり良くないですよね。ストーリーが決まってるんですよ。
そうですか。驚きました。最後に知り合いのマジシャンの方に頼まれたんですけど、理想の男性はどんな方ですか?
優しい人ですね。(笑)

今日はどうもありがとうございました。
こちらこそ。



















2015年2月8日

インタビュー 菅原正二さん

本日は一関市に在住で、ジャズの世界で活躍をされている菅原正二氏を紹介します。


≪主な著作物≫
聴く鏡  (SS選書
聴く鏡Ⅱ  (SS選書)
ジャズ喫茶「ベイシーの選択」  (講談社)
サウンド・オブ・ジャズ  (新風舎文庫)

ジャズの教科書  (学研) にて、日本一のジャズ喫茶と紹介される。
タモリが「ヨルタモリ」にて、菅原正二氏をモデルにしたキャラクターで登場


はじめまして。
こちらこそ。
菅原さんは一関の小学校、中学校を卒業されたんですか?
ええ、一関小、一関中、一関一高ですね。
はい、疎開されたわけではないんですね?
もともと、一関に住んでいました。
先月、菅原さんの友人の作家の島地勝彦さんにお会いしました。
疎開で来たのはシマジなの。シマジは一高の一級先輩でね。最近、よく会うようになって・・・。

ここで、私は島地勝彦氏の著書「毒蛇は急がない」を取り出す。前書きは菅原正二氏、二人の写真も掲載されている。

これ、「前書き、書け」と言われて、書いたんですよ。
あっ、でも写真は若く見えますね。昔の写真ですか?
いやいや、この間。つい、この間、撮ったんですよ。島地は今、ブレイクしてましてね。
素晴らしいですね。
すごいね。(笑)
新宿伊勢丹にある、「サロン・ド・シマジ」にも、行きました。
あっ、行った?
行きました。すごい、お店ですね。(笑)
今度、島地が出した本、見ました?「PEN」に連載していたコラムを本にした『バーカウンターは人生の勉強机である』

本を取り出す。

「推薦文、タモリさんにお願いできませんか」と、島地が言うので、タモリに言ったら「ああ、いいですよ」と、書いてもらったんだ。綺麗な本だね。
ああ、本当に綺麗な本ですね。島地さんは本の作り方が上手いですよね。さすが、元集英社のカリスマ編集長だっただけの事はありますよね。(笑)
やっぱり、さすがだ。(笑) 今度の本は装幀が非常に綺麗でね。シングルモルトの話なんですよ。タモリもシングルモルト詳しいから。
サロン・ド・シマジに行くと、よくスパイシー・ハイボールを作ってもらっています。
よく、行ってるんだ。直接、シマジと話をするんだ。(笑)
ええ、まあ。(笑)そこで、「来月一関に帰ってベイシーに行きます」
と言ったら、「菅原さんによろしく言っといてくれ」と言われまして。
ああ、そう。昨日まで連休でごった返していてね。
東京から、大勢の方が来られるでしょう。
ああ、色々来てるね。
何と言っても有名ですから。
東京から毎週来ている人もいるよ。(笑)
毎週? 東京から?
それも何年間も・・・。
新幹線でですか? マスコミ関係の方ですか?
いやあ、好きなのよ。すごいコレクターで貴重なオリジナル盤を持って、ここで聞いた方がいいって言って、自分で持って来るわけ・・・。今回もいいモノを持ってきたよ。
そうですか・・・。
いるのよ。結構すごい人。俺も持ってないような盤を持って・・・。盤によって、すごい違うから、いいのだけ選んで、持ってくるんですよ。一昨日、来たんですけど、みんな良い盤でしたよ。(笑)

菅原正二氏の指にはめられた、ドクロの指輪に眼を留める。

その指輪、シマジさんに貰ったものですね。
この指輪はシマジが使っていたモノを貰ったのよ。だから、今東光、柴田錬三郎、開高健の魂が入っているんですよ。
今、シマジさんが付けているのは・・・。
新しいの。こっちの方が年季が入っているの。シマジは自分の付けているのを俺にくれて、自分は新しいのを付けているの。こっちの方が値打ちがあるのよ。
ああ、そうですか。(笑) 同じ指輪を付けている人を見ると、パワーを込めてますよね。
そうそう、充電する、と言って・・・。(笑)
シマジさんを一高時代から知ってたんですか?
知ってましたよ。私の同級生に山川修平という作家がいて、今でも書いてますが、一緒に同人誌などを出してましたよ。
そうですか。シマジさんも小説などを書いてたんですか?
書いてましたよ。自分では、あまり言いませんけどね。
一関一高出身の作家、多いですよね。
三好京三さんもそうだし・・・、及川和男さん。
及川さん、私の隣に住んでました。それに、内海隆一郎さん。
結構いるんだね。あと、中津さん。
一昨年、お亡くなりになられましたね。
うん、中津文彦さん・・・、いい人でしたね。
中津さんのお父さんは一高の現国の先生でしたね。
ええ、知ってますよ。
実は私の父も一関一高で、中津さんのお父さんは恩師だったと言ってました。
ああ、そう。
父は内海隆一郎さんと同級生で親友だったと、言ってました。内海さんの小説の中にも父の話が出てきたり、するんですがね。
へえ・・・。何せ、一関はすごいですよ。遡れば、大槻三賢人が出てますからね。
私が不思議に思うのは、どうして、この一関にこれだけの才能が集まったのか、ということなんですよ。
この間、大槻文彦のお芝居を文化センターでやったんですよ。
はい、図書館に行ったら、ポスターがありました。
大槻文彦の祖父の大槻玄沢が文彦に贈った言葉が『遂げずばやまじ』、一関一高の校訓ですよね。校門の右手の黒い石に彫ってあります。おそらく、その精神が一関市民に流れてるんじゃないかと思いますね。
『遂げずばやまじ』の彫像は一関図書館にも、ありました。
それは一関市役所のところにあったのを、持ってきたの。大体、大槻三賢人の銅像が駅前にあるけど、図書館にあった方がいいんじゃないの? 誰も見ないじゃない。
見ませんね。
今回の大槻文彦のお芝居、黒田京子さんがピアノを演奏してるんですよ。坂田明さんとよく講演している方で、上手いんです。前日にベイシーへ来て、「恥ずかしながら、何度も一関に来て、大槻三賢人の銅像に気付きませんでした。お芝居で演奏するので、初めてまじまじと見ました」と、言うんですよ。
いやいや。一関市のアピール不足ですよね。実は私が住んでいる東京の日野市に国宝の高幡不動尊がありまして、新選組の土方歳三の菩提寺なんですが、その土方歳三を讃える石碑の選文が大槻三賢人の一人、大槻磐渓なんですよ。こういった事も、一関市がもっとアピールしていけば、面白いと思うんですがね。
ううん、日野市・・・。
誰かお知り合いでも?
日野市に山口孝というオーディオ評論家をやってた強者がいたんですよ。ここにも、しょっちゅう来てたんです。本も結構、出してますよ。ただ、介護していたおふくろさんが亡くなって、断筆したんですよ。
それほど、ショックだったんですかねえ。
すごい、とんがった妥協のない男だったからねえ。なあなあという部分が一切ない男だったから、折れやすいんだよね。たぶん・・・。
何か、お仕事はされてるんですよね。
ううん、一人で座禅でも組んで音楽でも聴いてるんじゃないかなあ。
いやあ、すごいですね。
聞き方が半端じゃないのよ。音楽と面と向かって、座禅でも組むような感じで聴いてますからね。
私なんか、お酒でも飲みながら、音楽を聴いてますが・・・。(笑)
私も仲間とわいわい言いながら聴いているのが、好きですよ。今に引っ張り出すつもりで、いるんですがね。
私、日野市に住んでますから、良かったらお会いしますよ。
いやあ、誰にも会わないですよ。
日野市にもジャズ喫茶が、ありますから。
なまじ、ジャズが流れているのなんて、許さない男ですよ。
えっ?
ジャズが店内に流れているのは、不謹慎と考えている男ですから。本気になって、対峙して聴かなければダメですよ。
ええっ?
私も店内でジャズが流れているのは嫌いですよ。
そうですか?
他の曲を流せばいい。ジャズは本気になって、聴かなければ・・・。垂れ流すものじゃ、ないですよ。有線でジャズを流すのはやめてほしい。底辺を拡げると思ったら大間違いで、かえって悪くしている。
そういうものなんですか?
当たり前じゃない。ジャズみたいな音楽をレストランみたいな場所で流すのはよくない。それだったら、それなりのイージー・リスニングのBGMを流した方がいい。
ジャズはイージー・リスニングでは?
ジャズはイージー・リスニングでは、ないですよ。私なんか食事なんかしてられないですよ。誰が演奏してるか、気になって・・・。この間、坂田明とレストランに入ったら、ジャズが流れているわけ。私も坂田も気になって、食べた気がしないのよ。(笑)
私はクラシックの方を真剣になって聴くような気がしますが・・・。
逆ですね。クラシックの方がBGMとして流して、差し支えないような気がする。
そうですか。
ジャズを有線で流すようになって、悪くなってきた。タバコとジャズを政府で禁止してくれると、助かるね。
タバコですか?
だって、『健康のため吸いすぎに注意しましょう』なんて、パッケージに書いて売ってるじゃない。こんなのタバコのパッケージのデザイナーに対する冒瀆ですよ。こんな脅し文句、書くなら禁止した方がいいよ。そうしたら闇で吸って、もっと美味く感じるから。(笑)
ジャズも禁止ですか?
ジャズもジャズ喫茶以外で流すのを禁止した方がいいよ。
面白い意見ですね。でも、垂れ流してもいいジャズもあるのでは?
いっぱい、ありますよ。
そういうジャズを世の中で流すようにしては?
でもどんな音楽でも、無視するなんて、あり得ませんよ。ダンスミュージックにしろ、垂れ流しのジャズにしろ、少しは聴く耳を持たないと・・・。今の人たちは完全に無視してますからね。我々は無視なんて出来ないの、だから、気になるわけ。だったら、音楽なんて消してほしいんですよ。どうして、どんな場所でも音楽が流れていないといけないの? スキー場に行ったら、拡声器でいろんな音楽を流しているでしょう。それから、スキー場に行かなくなったんです。やかましくて・・・。山には山の音があるんだから、それを静かに聞けばいいじゃない。今は観念的に音楽を流してるだけなんですよ。
確かにスーパーマーケットでも、どこでも音楽が流れてますからね。
流さなくてもいいじゃない。騒音公害ですよ。(笑) 大概の人は慣れっこになって、完全に無視してるの。完全に無視できない人がいるから、いらつくんだよね。
ジャズのすそ野を広げるには、有効だと思うんですが・・・。
すそ野というのは、富士山みたいに高く上に行かなければ意味がないんですよ。煎餅みたいに拡がるんじゃあ意味がないじゃない。頂点が上に行かないと。正三角形かピラミッド型にならないと。ソンブリオ型みたいにへりが拡がるだけで、浮遊層ばかりで本格的なところに入ってこない。すそ野を広げるんではなくて、すそ野を上げるべきなんですよ。すそ野をちょっと上げれば、上の方も上がるんです。国民と政府の関係と同じなんです。阿部内閣を批判する前に国民のレベルが1センチ上がれば、阿部内閣なんて潰れるんですよ。(笑)
具体的には難しいですよね。ジャズ喫茶を増やすわけにもいきませんし。(苦笑)
ジャズ喫茶は無くてもいいけど、ちゃんと聴く人がいないと・・・。ジャズに限らず落語だってなんだってレベルが下がっているのは、お客さんのレベルが下がっているからですよ。お客さんが鋭ければインチキが出来ないから、もっとレベルが上がる。
難しい課題ですね。テレビも馬鹿みたいな映像しか流さないし、本を読むと言っても・・・。
有線の選曲をみても、聴きやすい曲をピックアップしているだけだから。コルトレーンといえばバラード、ビル・エヴァンスといえばワルツフォーデビー、とんでもない・・・二人とも過激なミュージシャンですよ。それをあのような扱いを受けるとは・・・。ビル・エヴァンスといえば聴きやすい音楽だと思われていますが、物凄いミュージシャンですよ。本当の凄いところを知らないで、都合のいいところばかり拾ってるから、間違いが起きるんですよ。
難しいですね。(苦笑)
ところで、このベイシーには多くの作家の方が訪れてますよね。阿佐田哲也さんとか・・・。阿佐田さんもジャズには詳しいですよね。
我々は色川さんと呼んでましたが、あの人はプロだ。我々とは違う。
どんな風に違っていたんですか?
ううん、私のような人間が軽々しく、色川さんの事は話せないね。

しばらく、菅原氏、沈黙する。

色川さんはどうして、この一関市に移り住んで来られたんですかね。
色川さんとは東京でしょっちゅう呑んでいたんですよ。ちょくちょく、このベイシーにも来てましたからね。その関係で・・・。
色川さんは何度も引っ越しをされていますよね。『引っ越し貧乏』という本にもその事は書かれています。
13回ぐらいかな。
ただし、それは東京都内に限ってです。こう言っては何ですが、こんな田舎にどうして引っ越してきたのか、腑に落ちないんですよ。
簡単じゃない。ここに来たいから来たんですよ。
それはそうでしょうけど、引っ越しって人生には重大事では、ないですか。
張本人は私ですからね。私の口からは、ちょっと話せませんね。
そうですか・・・実は私の一高の同級生にフジテレビで音楽プロデューサーをしているきくち伸というのがおりまして、彼のブログに、「よくベイシーに来てたよ」みたいな事が書かれてるんですが・・・。

きくち伸・・・ちょっと、よく分かりませんが、社長の亀山さんなら知ってますよ。
フジテレビの亀山社長ですか、すごいですね。
フジテレビの総会、持ち回りでやるんですが、今度はめんこいテレビでやることになって、今朝、番組審議会があって、盛岡に行ってきたんですよ。総会を盛岡でやってもつまらないので、一関のベイシーでやりましょうか、みたいな話になりまして・・・。
そうですか・・・。

店内が客で混み出す。

昨日でお客さん、打ち止めにしたかったね。(笑)

一関市には面白い方が、いろいろ、いらっしゃって、島地さんとコンビを組んでらっしゃる・・・。
えりさんですね。
ええ、なかだえりさん、お会いしてインタビューをしました。マジシャンの菅原英基さんとか・・・。
彼もここで何回かマジックをしてますよ。
ああ、そうですか・・・。
すごいね。テーブル・マジックって、難しいんですよ。目の前でやるから。ここで見ていても、分からないよ。何回も、ここでやってみせてくれたよ。
それはショーとしてですか?
お客として来て、見せてくれましたよ。プリンセス・テンコーみたいなマジックだと、仕掛けが分かりやすいんですけどね。カードみたいなものだと、難しいでしょう・・・。
まあ、そうですね・・・。(苦笑)

英基さん、来てたんですね。びっくりしました。一関には他にもマジシャンの瞳ナナさんも、いるんですよ。一関二高出身なんですが・・・。面白いですね。いろんな繋がりがあるんですね。

昨日、プロレス団体フリーダムズの興行が一関市でありました。代表は一関二高出身の佐々木貴さん、他にプロレス団体ドラゴン・ゲートのエース、YAMATO選手などが一関出身です。

私が不思議に思うのは、先ほども言いましたが、何故これほどの才能が一市町村から、出現したのかということです。私も東京に二十年ほど住んでますが、県レベルではあるかもしれませんが、市町村レベルでは聞いたことが、ありません。

私が早稲田大学に入って、ハイソサエティ・オーケストラというビッグバンドに入ったんですが、一関一高から早稲田に進んだ一高のブラスバンドの後輩が次々にバンドリーダーになって、私を含めて5人、バンドリーダーになりました。一つの高校から5人もバンドリーダーを輩出したことは、後にも先にもないんですよ。(笑)

そうです。正にそこなんですよ。音楽業界でも凄いですが、小説の世界でも一関一高は10人以上作家を出してますからね。こんな高校は他にはありません。

盛岡一高も作家は大勢、出てますがね。

はい、宮沢賢治は盛岡一高出身です。作家に関していえば、戦前は盛岡一高、戦後は一関一高ですね・・・。

伝統じゃ、ないんですかね。盛岡の次に一関なので・・・。

はい、しかし、盛岡に文学、音楽、絵画、芸能、格闘技・・・、これほどの才能が現われているでしょうか? 私が生まれ育った場所でありながら、不思議でしょうがないんですよ・・・。

アイドルも二人ほど、出てるんですよ。


小松彩夏の写真集を取り出す。

これは十年ほど前、『美少女戦士セーラームーン』のセーラーヴィーナス役で脚光を浴びた小松彩夏さんですね。一関学院から一関二高に転校したらしいですが・・・。
一関一高より、一関二高は美人が多いんですよね。(笑)
一関二高はもともと女子高ですからね。
小松彩夏さん、コカ・コーラのCMに出てましたよね。たしか、三関の方に住んでました。
それに『仮面ライダー鎧武』でヒロイン役の志田友美、現在、一関学院の三年生です。私の中学の後輩なんです。
そうですか。料理研究家の豊村薫というのを知ってますか? 一高出身なんですが、彼女もなかなかやるんですよ。目黒の自宅で料理を出してるんですよ。タモリの自宅の近所ですよ。本も出してます。

菅原氏、一冊のイラスト集を差し出す。

これはwatoといって、私の娘が出した本なんですがね。
ええっ! 娘さん?
このイラスト集はアメリカから出てるんですが、私より本を出してますよ。
今、アメリカにいらっしゃるんですか?
東京にいますよ。
面白いですね。そんな方がいらっしゃるとは・・・。
絵本も出してますよ。
一高出身なんですか? 
一関一高出身で、私の後輩なんですよ。彼女は、料理研究家、イラストレーター、フードコーディネーターの三足のわらじを履いて、それらを組み合わせて活動してるんですよ。wato kitchenというブログを検索すると、いろいろ出てきますよ。一関市のコミュニティラジオFMあすもで毎週、『おむすびラジオ』という番組をやってるんですよ。著名人にインタビューとかするんですが、私にインタビューする時は「親子というのは隠そうぜ」と言ってたんですが、バレましたね。(笑)
親子の方が面白いじゃないですか。(笑) 娘さんは一高を卒業されて、美大か何かに進まれたんですか?
大妻女子短大に進んで、栄養学を学んで管理栄養士の資格を取りました。最初は病院で入院食を作ってたんですが、何年も同じ料理を作っているのは飽きたと言って、独立して色んな事を始めたんですよ。
イラストはいつから、やってたんですか?
イラストは前からやってたんです。いや、私もイラストは好きなんですよ。
菅原さんがイラスト? 音楽だけではないんですか?
この店のロゴデザインは私が描いたんですよ。私は我流ですが、娘はパレットクラブという絵の学校に通ってますから、本格的ですよ。盛岡の滝沢にあるゆとりが丘クリニックの院長が娘の絵を気にいって、病院中、娘の絵が飾られてますよ。
滝沢といえば、一関一高の遥か先輩の深沢さんが村長をしてましたね。
今、滝沢市になったんですよね。滝沢村でよかったのに・・・。スイカの名産地で、旨いんですよ。青森にみょうぶ山というスイカの名産地があるんですが、そこの種をもらってるんじゃないかと思うんですよ。シャリシャリして旨い。私はスイカにはうるさいんですよ。(笑)
みょうぶ山のスイカ、東京では手に入りにくいですよね。ところでWATOさんの絵は面白いですよね。なかだえりさんのとは、またタッチが違って・・・。
なかださんとは違いますよ。
フードコーディネーターといえば、このベイシーの近くにあったリズム食堂の長男がYAMATOというプロレスラーでフードコーディネーターの資格も持っています。
何? リズム食堂の長男? 子供のころ、知ってますよ。お父さんとは仲が良かったですからね。
来週、一関で試合があるみたいです。
ほう・・・。

しばし、二人でwatoさんの画集や豊村薫さんの著作物を見る。

豊村さんのお母さんが一関中学の音楽の先生をされてまして、今でも現役で合唱の指導をされてるみたいですね。
菅原さんの本に書かれているのは・・・。
一関一高の音楽の先生の古藤先生です。一高の音楽のレベルを上げたのは彼女です。この辺りにはもったいない人でしたね。

菅原氏が鈴木京香、タモリ、坂田明などが写った、生写真を取り出す。

鈴木京香さん、綺麗ですね。
来る時は、皆、まとまって来るんですよ。一昨日も銀座のトップクラスのお店のママが来ていたし、カリー番長って、知ってますか?
彼も来てましたよ。娘が世話になってるんですが、元は明治大学のビッグバンドのバンドマンですよ。
ツアーか何かなんですか?
いや、バラバラで・・・。鈴木京香さんと私は25年来の古い仲なんです。鈴木京香さんの映画デビュー作、このベイシーで撮ったんですよ。森田芳光監督の『愛と平成の色男』、石田純一さんが主演の・・・。この映画の時、まだ京香さんモデルだったんです。ちょっとこの映画のために、連れて来られたんですよ。この映画が女優になった、きっかけだったって京香さんは言ってますね。
このベイシーにカメラを入れたんですか?
ロケーションですね。石田さんが昼は歯医者、夜はアルトサックスを吹いているという設定の役なので、このベイシーでジャムセッションをやるわけ。京香さんが客席にいて・・・。私も映ってるんですよ。(笑)
凄いですね。(笑)
森田監督の奥さんが早稲田大学でバンドをやっていて、私の後輩なんですよ。
奥さんが後輩?
奥さんが早稲田のハイソサエティバンドにいたんですよ。
ええーっ! そんな繋がりがあろうとは・・・? 森田監督と結婚する前から奥さんの事を知ってたんですか?
知ってましたよ。
では、映画を撮影する時には、奥さんの助言があったんですか?
森田監督もベイシーに来たかったみたいですね。

しかし、イモヅル式に色んな話が出てきますね。(笑)
そうです。そこが、この企画の面白いところなんですよ。(笑)
来月、一週間ほどシマジが一関に来るんですよ。シマジが来ると大変なの、毎晩飲み会だから。シングルモルトに詳しくてね。
サロン・ド・シマジに300本ぐらいありますね。島地さんは一関にお住まいがあるんですか?
駅前にマンションを買って、奥さんと一緒に帰ってくるんですよ。
ちょうど私が高校を卒業して、プレイボーイを買える年齢になった頃、島地さんが編集長になられるんですよね。毎週、買ってましたよ。
あの頃のプレイボーイと今の雑誌、レベルが違いますよね。
違いますね。
凄い。今じゃ出来ないですよ。
今じゃ出来ないですよ。
相当、凝ってますよ。今じゃ出来ませんよ。
そうですね。
80年代の後半から、企業の接待交際費が締め付けられはじめたでしょう。ああいうところは少し緩めた方が活気づくんですよ。あれでキャバレーや料亭が全滅。政府は公共事業だなんだと、やりたい事をやりますけど、普通の民間企業の接待交際費なんてルーズでいいんですよ。そうすれば、皆が潤うんだから。
その通りです。それで経済が回るんですから。
雑誌を作るのにも、金をかけられないんですよ。昔は料亭で呑みながら対談したから、いい話も出ますよ。今は編集部で仕出し弁当を食べながら対談じゃ、話、はずまないですよ。いい記事を作れないんですよ。こういうところは多少、贅沢をしないと。シマジは浪費しようとか盛んに言ってますけど、正しいと思いますよ。それをしないと、色んなところがショボクなってくるんですよ。
今のプレイボーイだって、昔のと比べると全然違いますよ。写真家だって、超一流を使ってますからね。
今はデジカメになって、素人だって撮れますからね。ガタ落ちですよ。昔のグラビアはもっと迫力がある、もっと肉感的で・・・。これをデジカメで撮るとウソっぽいんですよ。生々しくないんです。(笑)
昔はデビット・ハミルトンとかが撮ってますからね。
今は若い器用なデジタル・エイジの方が、上手いですよ。デジタルカメラの使い方は・・・。アナログカメラの職人的なカメラマンの方が写真は迫力があったんですけどね。
今はフィルムも作ってないし、現像所もないでしょうからね。
全滅ですよ。表紙を見ても、色調が軽いですよね。女体の香りがしない。(笑)
はははははっ。
お人形さんみたいで、アニメーションですよ。肌の質感なんか、ないんだもの。今は便利になって、油断が生じる。シャッター切るのに緊張感がない。それとライティングがダメになってる。デジカメは何でも写すから。昔はライティングが命だったんですよ。


菅原氏、『うろつき夜太』の本を取り出す。

これは、シマジが持ってきた復刻版ですが、見たことあります?
私は週刊プレイボーイで連載しているのを直接見たことがあります。
内容が凄い。これを週刊誌で連載していたというんですから、信じられないですよ。シマジが柴田錬三郎と横尾忠則を一年間、プリンスホテルに拉致して、丁々発止で連載したんですから。これを週刊誌でやったというのが凄いですよ。だから、金かけなきゃ、いいの出来ないですよ。湯水のように金を使ったらしいですよ。それで結果的に赤字だったと。(笑)
NHKで島地さんを主人公にしたドラマがありまして、それを見ました。そんな話が出てましたね。
今はケチくさいから、いろんな分野でしょぼいんですよ。ケチケチするな。ドカンといかないと
。(笑)
不景気な時代ですからね。
鶏が先か卵が先かじゃありませんけど、読者が悪いのか作り手が悪いのか、両方で下がってるから・・・。どちらかが上がれば変わるはずだから。読者がNOといえば、いいんですよ。こんなのつまらないって、テレビでも何でも。両方で下がってるんですよ。一方を責められないですよ。作り手がなあなあ、読者がなあなあだから、今みたいな状況になってるんですよ。
何でもデジタルですからね。音楽だって、デジタル化していますし。
デジタルがいいのは通信系とかであって、そうでないものと使い分けなくては、いけないんですよ。一緒くたになってるから。デジタルは一種の革命ですからね。時代が変わっちゃったんですよ。考え方も変わったし、人間も変わった・・・。便利なのは認めますよ。その代わり別な一方が欠落するんですよ。そこが一番危ない。現代のアヘン戦争と言われてるんですよ。携帯電話とか・・・。アヘンですよ。依存症で・・・。その機械がなかったらアホンダラですよ。会話も出来ないですよ。今の若者とは。電池が切れたら終わりですよ。
スマホいじりながら、歩いていたりしてますからね。
いじってもいいですが、四六時中、やることはないんじゃないかと。店の中でお客さんが全員、青白く光ってるんですよ。何しに来たんだ、って言いたくなりますよ。集中力欠いてるわけですよ。全く鳴ってる音楽、遮断してるんですよ。頭の中で。そこが大きな間違いの元なんですよ。観光地に行っても携帯が繋がっているために、旅にならないんですよ。今、ここにいます。なんてメールで送ったりしてるでしょう? その段階でもう、どこかに行ったという意味がものすごく失われるんですよ。断ち切らないと旅にならないんですよ。糸を切らないと。糸を切った凧みたいにならないと感動しないですよ。もっと孤独になるべきなんですよ。それをたかがメールで友達が多いと思うのは錯覚としかいいようがない。あれはウソですよ。本当に困った時に助けてくれる友達なんて、いないですよ。調子のいいことばかり、言い合ってるじゃない。人の質が変わっちゃったから、今後は期待できませんね。
そうですね。
本当に変わりましたよ。私は40年、このベイシーをやってますけど、後半20年、特にここ15年ぐらいかな・・・。最近はもうお手上げですよ。皆、青白く光ってるですから。東京で電車に乗れば、八割か九割、携帯いじってるでしょう。あの状態がジャズ喫茶の中でも起きてるというアホぶりですよ。だったら来なきゃあいい。こんな喧しいところ。何でここに来て、携帯をいじるの? さっきの客もノートパソコンを広げてましたよ。それを何か所かでやられると、さすがに爆弾を落とす時もありますけどね。(笑)
そうですか。(苦笑)
普段は我慢するしかないから、我慢してますけどね。だけど、こっちは大事なレコードを貴重な針を減らして、私がいちいちレコードを掛けてるんですよ。本当にバカバカしくなる時があるんですよ。
爆弾落とすと悪口、言われるけどね。言われてもいいですよ。ブログなんかで叩かれるけど、叩いてちょうだい。それを読んだ人が、どう読むかですよ。ああ、そういう事はダメなんだ、と思う人も中にはいるでしょう。痛くも痒くもないですよ。言われてますけどね、ガンガン。後は読み手の見識に委ねるしかないですよ。ああいうのは防ぎようがないから。
そうですね。
ただ、世の中はそうやって変わってきたんですから、その流れは止めようがないですけどね。その人の人生だから好きにしたらいい。私たちだって、江戸時代の人から見たら宇宙人なわけだから。(笑)
まあ。(笑)
私たちはある時期を基準にして、モノを言ってますが、それは当たってないんですよ。そういうものだと思うしかないんですよ。
ただ、私も電車の中で皆がスマホをいじってるのは、さすがに気味が悪いですけどね。
異常ですよ。窓の外を見て景色を眺めている人が、一人もいないというのはね・・・。今の人は観察しなくなりましたよ。このベイシーで「トイレどこですか?」って、聞く人が倍増してるんですよ。トイレの前でトイレどこですか?って訊く人がものすごく増えてるんですよ。何故かというと、携帯ばかり眺めてるから、店の中を観察していないんですよ。お客さんがトイレを行ったり来たりしているのを、見てないわけよ。自分の仲間の誰かがトイレに行って帰ってきているのに、それすら見ていないんですよ。そこまで来てるんですよ。これはアホというしかないでしょう? そこまでいったら・・・。
そうですね。(苦笑)
視界が画像の中にしかないんですよ。どこかに行ったら、もう少し周りを見渡すとかね。いざとなったら、どこから逃げようかとか。動物的な野生の本能として、見なきゃダメですよ。東日本大震災の余震で何度も揺さぶられて、ある時デカいのがきたんで、レコードを止めて「金いらないから、みんな外に出ろ!」と叫んでも、知らんぷりして携帯いじってるんですよ。犬猫以下ですよ。動物なんか危険に対して敏感ですよ。犬猫以下になり下がっているんですよ。呆れましたよ。ここまで来たのかと・・・。
ううん・・・。
まあ、いいですよ。そういう時代に生まれてしまったんですから・・・。
元には戻れないでしょうしね。
戻ったためしがないんですよ。人類の歴史上・・・。人というのはそういう生き物なんですよ。
そうです。それが進化ですよ。
それは承知で言ってるんですけどね。戻ることはできない。誰もそれを批判する資格はないですけどね。私だって、東京に行くのに新幹線を使うし・・・。
そうですね。
こんな事を言ってる私だって、都合のいいところでは恩恵をこうむっているわけですよ。誰もいう資格はないんですよ。堕落するのは早いですよ。私はマニュアルのスポーツカーに乗ってたんですが、友達にあげたんですよ。今はオートマに乗ってるんです。久しぶりなので、乗ってください。と言うんで、乗ったら左足を使うのを忘れて、クラッチ踏まずにローに入れたらガリガリっていって、驚きましたよ。かつての愛車ですよ。私も堕落したもんだと、我ながら思いましたね。(笑) 一週間でもオートマに乗ると、もう左足でクラッチを踏むのを忘れます。(笑)あまり。こういう話はしたくないよね。
私の母も携帯電話を持ってるんですが、最初はメールが打てなかったんですが、一度メールを打つのを覚えると次からはメール一辺倒。
お年寄ほど、デジタル的なものを取り入れた方がいいですよ。
そういうものですか・・・。
一人でポツンとしているより、メールなんかで話をした方がいいですよ。携帯をお年寄に持たせてるでしょう? 徘徊なんかされると困るから。
持たせてますね。(笑)
そこはいいといえば、いいんですけどね。(笑) 私はいまだに携帯を持ってませんよ。生活パターンにもよるんですよ。私の場合、大した仕事をやってるわけではないから、固定電話で用が足りるんですよ。不便を感じないんですよ。サラリーマンみたいに動いてる人は携帯電話がなければ困るでしょうけどね。私の場合は四十年間ここにいるということが、ばれてるわけだから、外に出た時ぐらいは解放されたいわけ。だから携帯を持たない。外に出たら行方不明。

便利なものを手にした時は、何か大事なものを失う。ということは肝に銘じておいた方がいいですね。

うまい話というものはないんですよ。進歩は退化と同じなんですよ。人間は進化して、尻尾が無くなったといいますが、あれは退化と同じなんです。進歩するのは人間の宿命ですよ。文明は後戻りできない。そういった意味で、おかしいと思うのは、たまにSL走らせて、人が集まりますが、だったらSLに乗るかといったら、そうじゃないでしょう?
そうですね。
SLってすごい人が集まるんですよ。カメラマンがずらーっと並んで。だったら常時、走らせるかといえば、今度は公害問題で苦情が出るでしょう。たまにだから、いいんですよ。あれって変ですよ。新幹線の古い型が廃止されると聞くと、人が集まるでしょう? そこまで愛着があるかというと、そうでもない。なんか滑稽な感じがするよね。
確かに人が集まりますよね。
赤字路線を廃線にするという話があって、一関でも大船渡線を廃止するという話があった時に千厩で集会があったの。人が大勢集まって、国鉄に路線を残せって陳情した時に、国鉄が「今日、皆さん、何でここに来ましたか?」って訊いたら、全員が車。「だから、いらないでしょう?」と言われたら、ぐうの音も出ないわけ。
そうですか・・・。
だから、進歩するということは、どうしても矛盾が出るわけ。
私も一高卒業してから、国鉄に入ったので・・・。
ええっ、入ったの?(笑)
JRになった時、退職したんですけど、そういう話はよく聞きました。
詳しいんだ。だけど軽薄だよね。ポケモン電車とかで、人が集まって・・・。その程度で人が集まるというね。(笑) 普段から使うというのなら、ともかく・・・。
猫の駅長で人が集まりますから・・・。(笑)
確かに・・・。(笑) 以上の事から結論すると、世の中の人はイベントが好きみたいね。何でもいいから・・・。一関の地ビール祭り、すごい人が集まるんですよ。
有名ですよね。
でも、どう考えてもサッポロの黒ラベルの方が旨いですよ。ある時、一関の地ビール祭りに、黒鉄ヒロシがゲストとして呼ばれたんですよ。黒鉄さんが来るって、私が村松友視さんに密告したんですよ。村松さんと一週間、作戦を練って、黒鉄さんをどうやって驚かせるかと・・・。直前まで村松さんが一関に来るのを隠し通して、新幹線もわざと一本遅いのにして、黒鉄さんが一関市役所の人たちと駅前のレストランに入っている時に、こっそりサンルートの陰で村松さんと様子をうかがって、今だ! と文化センターに忍び込んで、黒鉄さんは舞台に一番近い控室を取っていたんで、私と村松さんは一番遠い控室に隠れたんですよ。私が現われないと不自然なんで、村松さんをその控室に隠して、黒鉄さんの控室に挨拶に行ったんですよ。控室に入ったら「おお。菅原さん、探してましたよ。心細かったですよ」と言うわけ。(笑)
黒鉄さんの講演が始まったんで、司会の女性に私が書いた原稿を「講演が終わったら、これを読み上げてくれ」と渡したんですよ。黒鉄さんが退場する時に「直木賞作家の村松友視さんから花束の贈呈があります」と言って、村松さんが堂々と花束を持って、現れたら、黒鉄さんが我々の予想を超えて驚いて、ああー! と言って絶句しちゃって、村松さんは花束を渡したら、さっときびすを返して戻ったの。後になって、その時に黒鉄さん「ジョークの一つも言えなかった自分が情けない」と言って自分の頭を叩いてね。その時に外で地ビール大会が開かれていてね。ちょっと飲むかと言って、ワサビビールというのを飲んだらまずくて、三人で早くベイシーへ行って、普通のビールを飲もう、とさっさとベイシーへ戻ってきてサッポロ黒ラベルのビールを飲んだら、「ああうめえ」と。あんな大会、イベントが好きで集まってるけど、冷静さを欠いてるよね。雰囲気で騙されてるだけ。だって、地ビールがそんなに旨いんだったら、キリンとかサッポロみたいに歴史のあるビール会社は立場ないよね。

私も地ビールを買って、友人にプレゼントしたら、まずいと言われて。(笑)
私も旨い地ビールを呑んだ事なんて、ないですよ。雰囲気で騙されるよね。日本の大手のビールって世界的に旨いんですよ。アメリカに行ってもオーストラリアに行ってもサッポロの方が美味しいですよ。アメリカなんて冷やしもしないでビンのまま、呑みますからね。ドイツに行くといわゆる地ビールらしきものがあるんですが、問題は口に合うかどうかですよ。日本のビールをグッと冷やしたのが一番美味いんじゃないかと。
日本人に合わせた味ですからね。
外人も言うんですよ。日本の食事が一番美味いって。世界各国の料理をこんなに日本流にアレンジして出してる国は無いんですよ。やっぱり、ハンバーガー食べてる国と寿司を食べてる国の差は大きいよ。日本人の舌はデリケートだよ。魚の食わせ方からしたら日本の右に出るところなんてないですよ。一昨日来たカリー番長にインド人のカレーって美味いのか?と訊いたら「全然不味いですよ」って。「日本のカレーの方がおいしいですよ」って、はっきり言ってました。インドの本場のカレー食べても私たちの口には合わないと思いますよ。
アメリカに行った場合にはイタリア料理のいいところに入った方がはずれがないんですよ。イタリア系のアメリカ人が多いでしょう?しかも優秀な人間が移民してくるんですよ。ハリウッドでロバート・デ・ニーロの経営している店に入ったら旨くて感動しましたよ。アメリカのJBAの社長に招待されて行ったんですよ。彼の父親がイタリアのシシリー島出身なんで、顔が効くんですよ。

ここで、出版社から電話が入って、しばし中断。

連休は混むんですよ。定年退職して、毎日が日曜日なはずなのに人ってカレンダー通りに動くんですよ。癖がついてるのかもしれない。日曜に動くっていうのは、結局にぎやかな方が好きなんですよ。私は逆で、人がいない方が好きなんですよ。大概の人は賑やかな方に行きたい。その心理なんですよ。中尊寺なんて、暇な時は誰もいないですよ。閑散ですよ。冬なんて。私はそういう時こそ狙い目だと思って行くんですけどね。温泉なんて、誰もいない時行くといいよ。誰もいなくて、こんな贅沢ないと思うよね。じじいだらけだから、猿が温泉に入ってると思いますよ。
そうですか。(笑)

お客さんが入ってきて、菅原氏が断る。

電気が落ちて、シャッターが半分閉まっているのに、ああやって入って来る客がいるんですよ。普通だったら諦めますよね。中にはとっくに閉めてるのに、平気で座ってる客がいたりするんですよ。どういう神経してるのかなと、思いますよ。暖簾の方が効き目があるのかなと思って、暖簾にしようかと思った事もありましたよ。
ジャズ喫茶ベイシーが暖簾ですか。それも面白いですね。
明日、人間ドッグだから、何も食べれないんですよ。
磐井病院か何かで?
金ヶ崎の健康センターで、常連なんですよ。ガンなんて分からないより、分かった方がいいからね。今、ガンは死ぬ病気じゃないから。「病院なんて行かない方がいい」なんて本を出してる医者なんているけど、バカじゃないかと思いますよ。早期発見すれば、何とかなりますから。 私はあっちこっち、バンバン切ってますから、ここにこうしていますけど。19歳の時に肺結核で片肺切ってますから、私は早く死ぬ者だと思って暮らしていたわけです。20代で死ぬかなと思っていたんですよ。一病息災って、よく言うじゃない。ちょこちょこ病院に行ってた方が元気で病院に行った事がない人間よりも長生きするよね。私の身体、切り傷すごいですよ。案外その方が長生きするんじゃないかと。
いつも検査されてるようなものですからね。
どこか悪ければ、色々調べられるから、何か病気が出るよね。私は病院慣れしているから、割と気楽に行くんですよ。
珍しいですね。嫌がる人もいるじゃないですか。
それはダメです。冷酷非情にガンですって言われた方がいいんですよ。それで的確な処置した方がいいんです。私の病歴、全て摘出か手術なんですよ。私は気が短いから、自分から切ってくれって、言うんですよ。医者の方から切りましょうと言われた事は一回もないの。肺結核の時も病院としては化学療法で治ると言われたんですけど、三年ぐらいで治ると言われたんだけど、当時19歳で病院に寝てろと言われても、焦りますよね。それで、市内の病院脱走して国立病院に行ったら、そこに外科医の切るのが好きな先生がいてね、レントゲン見て「おお、切りごろだな」と言って、親にも相談しないで「来週、手術するからな」と言ったら、親が「やめろ!」 とか、言って。(笑) 切ってサッパリ、さよなら。
それは素晴らしい。(笑)
それで、タバコやめる気毛頭なし。弱気になるとダメなんですよ。
今東光和尚みたいな事、言ってますね。
肺結核になったから、「タバコやめました」って、言ってたやつはみんな死にましたよ。本当に悪くなったら、吸えなくなりますよ。酒も飲めるうちは飲んでいいんだと思いますよ。弱ると飲めなくなりますよ。都合のいいことばかり、言ってますがね。(笑)
何か、島地さんと話してるみたいになってきましたけど。(笑)
シマジも大腸ガンやっても、葉巻バカバカ吸ってるでしょう? あれがいいんだと思う。シマジと似ているかもしれない。全然、反省しない。
島地さんも『毒蛇は眠らない』という本の中で、菅原さんは俺以上の毒蛇だ、と書いてますけど。(笑)
普通、肺結核やったら、タバコ吸わないでしょう?私は肺結核やってから、タバコを吸い始めたんだから。胆のうだって、自分から取ってくれって言ったんだから。身体中、臓器欠損ですよ。ただ失敗したこともあって、「臓器移植してまでも、長生きしたくないよ」なんて芦屋からベイシーに来たお客さんに言ったら、「実は何年か前に、ドイツへ行って肝臓移植してきました」と言われて困っちゃってね。(笑)あの時は迂闊でしたね。
それは困ったでしょうね。(苦笑)
だって、いくらタバコ止めた、酒止めたって言ってもね、交通事故で明日にでも死ぬかもしれないってことですよ。あまり極端にそんな事に気をつかったって、しょうがないよね。
いつかは必ず死ぬんですから。
それは確実だね。それほど確実な事はない。最近、同級生が立て続けに亡くなってるんですが、お前もとうとう行ったかと・・・。哀しくもなんともないですよ。若い時はびっくりしますけどね。年を取るのも悪くないですよ。あまり慌てなくなるよ。若いある時期大変ですけどね。この間マツコと有吉の番組を見ていたら、面白い事を言ってましたよ。マツコが「若い時は感動したり、落ち込んだりしたのが激しかったのに、年とともになだらかになってきたような気がする」と。そうなんですよ。段々感情の起伏がなくなってきて、最後は心臓停止みたいに平らになるんじゃないかと。私も亡くなった人、いっぱい見ましたからね。いずれ、似たような事になるんじゃないかと、どこかで思ってます。うまく出来てますよ。年を取るとそれなりに、なりますよ。
うまくできてますかね。(笑)
若いうちに自殺した同級生もいますけど、「お前、早まったなあ」と。何も自殺しなくても、いずれ死ぬのに。と思って。でも、自殺するなら、若いうちだもんなあ。今、この年で自殺しても、誰も同情してくれませんよ。(笑)こうなったら、いくらでも引き延ばそうと。三島由紀夫みたいなのは自作自演だろうね。美意識で。美しく散ろうと。
ナルシストの極致ですかね。
超ナルシストでしょう? 私は伊勢丹の横の名画座で昔、会った事がありますよ。白いスーツを着て、割と小柄なんですよ。村松さんが三島由紀夫の原稿を取りに行ってるんですよ。家に行ったら、ガウンなんか着てきてね。さほど豪邸でもないのに、豪邸のような雰囲気を出して、インターフォンを押して女房に「紅茶を頼む」と言ったら、隣の部屋で奥さんが「はーい」と肉声で応えた、と。(笑) 村松さんと大笑いしてね。三島由紀夫らしいよね。あと、野坂昭如さんがすごいんですよ。野坂さんの自宅に、村松さんが夜中に原稿を取りに行ったら、「夜中の二時までに原稿を上げるから、それまで、その辺を歩いて待ってろ」と言うわけ。それを間に受けて、二時に行ったら、呼び鈴の紐が引きちぎられていた。というね。(笑)
それはすごい話ですね。
野坂さんは面白い人だよ。何回か、ここに来ている。五木寛之さんも来ていますよ。ボクサーみたいな赤い服を着て入ってきてね。
野坂さんは「朝まで生テレビ」で、よく出てましたね・・・。
私も見てましたが、野坂さん、可愛いよね。ガードが甘いのね。人にいきなり噛みついたりして、逆にコテンパンにやられっやったりしてね。ガードを固めないで、ばっと言っちゃうじゃない。つまり、そういう面白い人が絶滅危惧種なんて言って、どんどん減ってるよね。今、相当いなくなっちゃったよ。
そうですね・・・。
色川さんが亡くなったあたりで、終わっちゃった感じだね。色川さんはすごい面白い人だったからね。色川さんって、何とかしてあげなきゃ、と思わせる人でね。シマジ以上に人たらしなんですよ。皆に愛されるから、大騒ぎになったんですよ。私が悪者にされたの。色川さんを一関に拉致したって、言われたんですよ。私はやめろって、言ったんですよ。一関に来たって、つまらないから。そうしたら、色川さんが「菅原さんのやり方を真似させてください」と来たの。一人で書きものして、好きなジャズ聴いて、たまに東京から友達が来た時に盛り上がる、このやり方はなかなかいい。それが事の発端だったの。それで、自分は純文学が書きたかったんですよ。東京にいると友達が多くてうるさくて書けないから。真面目に純文学を書きたかったんですよ。私止めたんですけど、バタバタと引っ越しが始まっちゃって、とりあえず荷物が多いんで一軒家探して、暫定として借りたんだけどね。ところが、色川さんに誤算があったのよ。私だったら、たまにしか友達なんて来ませんよ。色川さんが来たら、毎晩だって友達が来ますよ。色川さんがいたら、一関が変わってましたよ。早く亡くなったからよかったようなものの、あれであと二、三年生きてたら、一関が変わってたよ。
一人で一関を変えてましたよ。色川さんが亡くなった後、野坂さんが来て「我々も一関にアパート借りてしょっちゅう色川さんに会いに来ようと相談していたところなんだ」って。これだもんなあ、と思ったよ。(笑)色川さんは自分がそこまでの大物だって思ってなかったんですよ。私は小物だから、ほっぽかされていますよ。普段は寂しく暮らしていますよ。お祭りの時はたまたまですよ。色川さんはダメですよ。皆、連ちゃんで来ますよ。そうしたら接待するのに忙しくて東京にいる時より大変ですよ。わざわざ、来られると、接客する負担が倍増するんですよ。余計、ひどい事になるんです。そこまで計算していなかったんですよ。これが真相なんです。

ここから本題に入って、一関市の人たちにメッセージなんですが・・・。
建物を残して、記念館などを造って客を集めたりしようと、一関市は考えていますが、その考えは非情に貧しいです。人に金を掛けるべきです。建物や歴史的なものなどよりも、色んな優れた才能を持った人に家を建てて住まわせるとか・・・。つまり、人が大事なんですよ。中尊寺だ、仏像だ、世界遺産だなどと言うよりも、今現在のものを大切にするべきなんです。数百年も前の物を守って、それで金を稼ごうなんて、汚い魂胆ですよ。今の中尊寺の坊主が何をやったんだと、料金所を作っただけじゃない。昔の遺産を守ってますけど、今の歴史を作ってないじゃないですか。今、現在、歴史を作ってる人を援助すべきでしょう。今も歴史の渦中なんです。今の事に目を向けないで、古い物を大事にするという発想ではなくて、最後は人なんです。

それに一関の人は勉強不足ですよね。
はい、それは私も感じます。この企画を立ち上げたのも、一関市はこんなにすごい人材を輩出してるんだという事を知ってもらいたいからです。
大槻三賢人のことだって、知ってる人は少ないですよ。大槻冬彦が日本最初の国語辞典言海を作ったことも知らない。
大槻冬彦が標準語を作ったということも知らない。
建部清庵という、すごい医者がいて、杉田玄白と親交があったんですよ。私、一関市の建部銃砲店に行って、杉田玄白の直筆の手紙を見せられた事があったんです。
それはすごいですね。
腑分けしたのも、日本で二番目ですからね。藤吉の墓って、あるでしょう?
あります。あります。
だから、医学の方もすごいんです。
建部清庵は解体新書の陰の功労者ですからね。あまり、知られていませんよね。
自覚が足りませんよね。
まあ、私も東京に行って、一関の良さを再認識したという事もありますけどね。
一高生なんて、このベイシーを素通りして、東京に行ってベイシーの凄さが分かって、慌てて来ますからね。もう手遅れだって、言うの。こういう処に眼をつけて忍び込む位の高校生じゃなきゃ、将来の見込みはないですよ。(笑)
でも、いるんじゃないですか? 一高生で忍び込む生徒は?
いや、いませんね。開店当初は行く所がないから、結構いたけど、今は他に店が出来てるから、ほとんどいないに等しいですね。
そうですか。
何人かぽろぽろと来てますけど、本格的じゃありませんね。まあ、いいだろう。今さらジャズでもないだろうという気が私にはあるんですよ。我々の世代だからジャズが良かったので、今はジャズがあっても無くてもいい時代ですよ。その辺に関しては何とも思ってないですよ。やっぱり、ジャズの時代というものが、ありましたからね。60年代をピークに。それを今の人に押し付ける気はありませんね。
ジャズ喫茶、60年代はブームでしたものね。
あれはブームじゃなくて、本当に凄いのがいたんですよ。60年代はオリンピックの後だったせいか、物凄い人が続々来てたんです。行くコンサート、皆凄かったですよ。63年にカウント・ベイシーオーケストラ、64年デューク・エリントン、64年のデューク・エリントンは一番メンバーが充実してたんです。サッチモは来るし・・・。額面通り、凄かったんです。ブームと言いますけど、ブームじゃなくて、本当に凄かったんです。
聞くところによると、結構ギャラが良くて、一流のバンドマンが来日したという話も聞きましたが・・・。
もちろん、それはありますよ。それと1964年に東京オリンピックがあって、景気が良かったから、バンバン金を使ってバンドを呼んだんでしょうね。アメリカで彼らが受け取るギャラの何十倍も日本は出してましたからね。掛け値なしに凄いバンドマンがいた時代ですよ。今は東京ジャズなんて、BSで見てますけど、ひどいもんです。皆、商売で来てるのありあり。命がけなんて、一人もいないですよ。つまんないです。今さら言っても、しょうがないですよ。レコードという動かぬ証拠があるんですから。レコードの中のジャズに勝てるジャズなんて、ないですよ。もう無理!(笑)レコードという記録媒体は最後まで残るんですよ。
私はよく分からないんですが、CDは何年か経つと、音が消えるといいますけど、レコードはそういう事はないんですか?
CDはハナから歯牙にもかけていないから。よく知りませんよ。
何枚回も掛けて、レコードは減らないんですか?
レコードは減らないよ。減るのは針の方で。
針の方が減る?
そうですよ。レコードの方は一度通り過ぎてしまえば、二度と同じ場所は通りませんから。リリーフがいっぱいいるわけ、レコードは何枚枚もありますから。針は高校野球のエースみたいに一日中走っているわけだから、減るのはダイヤモンドの針の方なんですよ。
確かにそうですね。
一日40枚レコードを掛けるとして、33回転に円周率を掛けると、ここから平泉までの往復ぐらいの距離になるんですよ。いずれ、専門家に正式に計算してもらいたいんですけどね。だから、減るのは針の方なんですよ。まあ、たった一枚しかないレコードを毎日掛けてたら、レコードも減るかもしれませんがね。私が高校時代に買ったレコードなんて、未だにビクともしませんよ。レコードを擦り切れるまで聴く、という表現があるでしょう? それはSP時代の蓄音機の名残りなんです。あれは物凄く重い鉄の針をドカッと載せるから、本当に削れるんです。私が持っているベートーヴェンの五番なんて、真っ白になってますよ。そのSPを電気仕掛けにしてSP用の針で掛けると、いい音がしますよ。45回転が付いてる昔のプレイヤーにSP用の針を付けると、物凄い音がしますよ。蓄音機が一番いいんですけど、レコードが削れますからね。後もう一ついいのは、SPからLPに焼き直したレコードがあるでしょう?それが音がいいんですよ。SP盤は入ってる音が凄くいいから。30年代のカウント・ベイシーなんか、みんな焼き直してますから、何の文句もない位いいですよ。LPに焼き直した場合の良さというのがあって、78回転の音は強烈過ぎて、ノイズの音がバチッと来るんですよ。33回転というのに秘密があるんですよ。ゆったり感があるんです。何故LPが33回転に定着したかというと、そこに何かちょうどいい、くつろぎ感があるんだと思いますよ。45回転のLPも普及しなかったんですよ。33回転には地球の自転に関係する何か一番いい時間感覚じゃないのかという気もするんですよ。魔法なの、ちゃんとした答えがないんですよ。土台、一本の溝からあんなにたくさんの楽器の音が出るのかも、分からないんです。
そういうものなんですか?
分からないですよ。私も未だに、分からないです。スピーカーだって、何で紙を振動させて、シンバルだのトランペットの音が出るの? 皆、不思議とも思ってませんけど、それなら紙でシンバルとかトランペットとか作れる? 作れないでしょう? 全部のオーケストラの音を紙のスピーカー一個で出せるんですよ。しかも、その紙にたかがマグネット付けただけで、強圧となってあのダーンという音圧が出るんですよ。おかしいじゃない。紙であの音圧が出るなんて。これも不思議なんですよ。誰も不思議と思わないところが、ぬかってるんですよ。これは脅威ですよ。レコードとスピーカーの関係は、まるで魔法、マジックですよ。
初めてスピーカーを作った人は、原理を知ってたんですかね?
最初は陣笠みたいな紙を張った傘が音を発するのを見て、スピーカーのアイデアが浮かんだらしいですけどね。ウエスタン・エレクトリック社で70年代に、もう完成してるんです。マイクとスピーカーの原理は同じものなんですよ。配線を逆にして、スピーカーに向かって話すと、マイクから音が出るんですよ。振動したものを増幅しているだけですからね。スピーカーはマイクになるわけ、盗聴するのにいいですよ。(笑)
それは面白い話です。
レコードとスピーカーの関係の謎だけは解けませんね。どうしてという位、凄い。だから、飽きないんですよ。何か分からないから。すごく原始的な原理なのに、このレベルで音が鳴るなんて。
あまり疑問に思いませんでしたね。鳴るのが当たり前だと思ってましたから。
ぞこを疑問に思わないとダメなんですよ。最初の原理が素晴らしいんです。後にハイテクでいろんな事をしてますけど、最初の原理に勝てない。60年以上前の音が、未だに物凄い音で鳴るんですよ。それにステレオは一本の溝で左右の音に分かれますけど、作った時点でこんなに上手くいくと思ってなかったんじゃないですかね。たまたま、うまくいったんですよ。だって、一本の針で左右の溝の違いを反対方向に拾って、ちゃんと分かれるというのはね。そんな都合のいい話は本当はないんですよ。最初はアーム二本付けて、別々の溝から音を拾ってたんですが、どうしてもズレが出るわけ。結局は一本の溝から音を拾うようになったんですが、作った時点でここまで上手くいくとは思ってなかったと思いますよ。未だに変わってませんものね。それと再生する媒体で、これほど当時のままを生々しく再現するものはないですよ。映画だって、昔のものは古めかしい感じがするじゃない。レコードは今そこで、やってるような音がするじゃない?
テープで録音しても、ここまでではないですよね。
レコードにカッティングした方が変化がないから。テープは劣化したりしますからね。たまに移し替えないといけないから。レコードに刻んだ状態が一番、長持ちするんですよ。
そうですね。
タイムカプセルにして何百年後の人に残すには、レコードが一番いいということになって、原発の使用済み燃料をどうやって後世の人に伝えようかということになって、レコードを使おうということがヨーロッパで決定しましたよ。CDはダメです。アルミ箔を蒸着させただけだから、高温多湿の耐久テストをしたら、一週間もちませんよ。レコードは平気ですね。SP盤を壁に埋め込んで百年後に鳴らそう、という実験をやって、ちゃんと百年後に鳴って、証明されたんですよ。私も耐久実験をやってまして、高校時代からずっと毎日掛けてるレコードが何枚かあって、未だに平気ですよ。
塩化ビニールでも大丈夫なんですか?
当初、思ってたよりも長持ちするということが実績として残っちゃったんですよ。塩化ビニールは思った以上にもつんですよ。最初、思った以上のモノだったということですね。まだレコードの歴史は百年ぐらいですが、これが二百年、三百年となると文化遺産になりますよ。もう、してもいい時期ですね。みんな、ナメてるんですよ。工業製品だからです。芸術品には過大な評価をしますけど、工業製品にはあまり評価しないんですよ。ところが、大量生産した工業製品こそ凄いんです。ライカなんて、もう造れないですよ。
どこかの芸術家が作った一点ものの芸術品ばかり評価して、何億も値段付けて、ライカは何十万、変な話ですよ。大量生産のモノにこそ、あらゆる知恵と工夫が凝縮されてるんです。売れなくなったモノは数の理論で生産を止めてしまいますけど、規模を縮小しても続けるべきです。でも、残るべきものはちゃんと残るんです。レコードプレイヤーが売れ始めて何とレコード全盛期の時より今の方が売れてるんです。オーディオ雑誌の表紙はどれもレコードプレイヤーです。一千万、五百万といったレコードプレイヤーが販売されてます。ベンチャー企業まで作ってるので、ものすごい数のレコードプレイヤーが世に出てますよ。ヨーロッパはLPの売り上げがCDを上回ったんですよ。皆は量販店にしか行かないから分からないですけど、今、東京の中古レコード店では、レコードを買いあさってますよ。CD売り場は閑散。中古市場は何万円もするようなレコードが何枚も売れてますよ。
アナログとデジタルが逆転する時はあるんですかね?
それはないでしょうね。デジタルはCDから、ICチップに代わってますから。ダウンロードして、音楽を聴く時代になりましたから。ただ、そういう音はレコードの音に及びもつきませんよ。
レコードはガチャンとか、ドスンとか荒っぽい音が出るんですけど、ダウンロードした音は綺麗に滑らかな音になってね。ジャズはレコードと相性がいいんですよ。他のジャンルの音楽はデジタルでもいいですよ。でも、ジャズを本格的に聴きたいとなると、レコードじゃないとね。ただ、私の場合、世直ししようとか、他人に押し付けようとかいう意識はないわけ。「私はレコードが好きなんです」で、片付けたいわけ。若い人はどんどん新しい事をやってください。(笑) 私たちはレコードに義理を感じてるから・・・。しがらみのない人は何をやってもいいの。私たちはレコードで育ってきたんですから、小学校の時の蓄音機の時代から知ってますからね。レコードに恩義というものを感じているわけですよ。
若い人はむしろLPを新しいものと感じるかもしれませんよ。
そういう話を聞く時もありますけど、どうでしょうね。
いくら、新しいものが好きといっても、ダウンロードした音が変だというのは、分かりますからね。
でも、元には戻りませんよ。私が最も気に食わないのはレトロ扱いされることですね。レコードの音はあのパチパチとなる音がたまらない、という人がいますが、冗談じゃない、あれは埃の音ですよ。我々はパチともいわせたくない。そこから間違ってますよ。レトロ趣味って、嫌いなんですよ、本当は。私は新しいものが好きなんですよ。それが不幸にして、60年代で止まっちゃったんです。
それから興奮するものが何一つ出てこなかった。皆、勘違いしてますよ。LPにこだわってますねって。こだわってませんよ。CDなんて、モノとして何の魅力もないし、せいぜいが農家のカラス除けですよ。モノとして永遠を感じないものは興味ないですよ。(笑)

どうも今日は、長々とありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。