北千住の街 |
[主な作品]
・とらえどころのない曖昧な輪郭(星雲社)
・東京さんぽるぽ(集英社)
・奇跡の一本松~大津波をのりこえて(汐文社)
・駅弁女子 日本全国旅して食べて(淡交社)
----どうも、初めまして。よろしくお願いします。
こちらこそ、よろしくお願いします。
----初めになかださんの経歴を訊きたいのですが・・・。
はい、私は一関市の真柴に生まれ、南小、一関中、一関一高、日本大学生産工学部建築工学科、法政大学大学院建築科と進みました。
----イラストを描くようになった経緯は・・・?
法政大学大学院で都市史を学ぶようになって街並みの研究をしていたんですが、恩師が陣内秀信※1先生という方で、先生とタイのバンコクに調査に行った時に、街並みのスケッチを描いていたのが先生の眼に留まって、先生に、「今度、出版する本のイラストを描いてみないか?」と、声を掛けていただいたのが、イラストを描くようになった、きっかけですね。
----そうなんですか? 子供の時から、描いていたというわけではないのですか?
もともと絵描きやイラストレーターを目指していたわけではありません。絵も授業で描く程度でした。大学も建築でしたので、特に絵についての勉強をしたことはありません。
東京駅のイラスト
----どうして、建築の道を目指したんですか?
どうして建築の道に進んだのかも、今となってはよく覚えていませんね。(笑) ただ、美術の授業は好きでしたし、何かモノを創りたいという想いはありました。現実的に絵やイラストというよりは、建築の方面に進みました。きちんと職業として成り立っていますし、美術の要素も入っていますから。
----しっかりした高校生ですね。
ありがとうございます。(笑)
----いやいや、私も一高生でしたから・・・。一高生って公務員とか、学校の先生、銀行員とか堅い職業に進む人が多いですよね。
そうですか? 私の周囲にはそんな人、あまり、いませんでしたよ。(笑)
----学校の先生になった人は、多くありませんでした?
私は理系だったので、そういう人は、そんなにいませんでしたよ。
----そうですか、そういうものですかね・・・。あっ、話を元に戻しますね。それで、もう、イラストレーターになったんですか?
いきなり、陣内先生の本のイラストに採用されて、在学中に建て直したばかりの新しい講談社に打ち合わせで、連れていかれました。編集の方にも、「何だ、この学生は?」みたいな眼で見られましたね。(笑) そこで、先生からイタリアの資料を渡されました。私はタイのバンコクで先生の眼に留まったんですが、描く事になったのはイタリアの本で、しかも私は東京の都市史の研究・・・。(笑) ただ、絵ということでしたので・・・。イタリアの都市史の研究をされている先生からイタリアの写真をいただいて、私もささやかながら卒業旅行はイタリアでしたので、その時の経験を思い出しながらイメージを膨らませて、先生の文章に合わせてイラストを描きました。ただ、その時、締め切りという概念があまり無くて、打ち合わせはまだ初期の段階だったにもかかわらず、次の打ち合わせには何が何でも、間に合わせなくてはいけない、と思って、30カット描いていったんですね。ところが、まだ先生は原稿が出来ていなくて、原稿よりも絵の方が先に出来上がってしまったんですよ。(笑)
----それはまた、すごいですね。(笑)
一気に30カットという、まとまった量が上がってきたので、編集の方も、私の事を初めは何だか学生みたいに思っていましたが、「ほう、これは使えるな」ということになりまして・・・。最初、その本はイラストの部分が少し、何なら文章と写真、半々でもいいと編集の方は考えていたみたいですが、結果的にはオールイラストでしかも表紙まで、私の絵が採用されることになりました。知らなかったことが幸いして、まるまる、先生の文章と私の絵という本が出来上がりました。
築二百年の蔵
----これは面白い話です。
それで、在学中にイラストの多い本を描かせてもらうようになって・・・。と同時に、在学中の1999年に千住のこの蔵に引っ越してきました。ちょうど引っ越す時に、一関にいる父が癌になりました。
----ううん、そうですか・・・。
私は一人っ子だったんですね。当時、この蔵は築190年だったんですが、こんな古い建物に娘が引っ越して来るとは、どういうことだ、と。
----ははっ、確かにそうですね。
父は本当は一関から娘の様子を見に来たかったのに、入院しているので見に来れなかったんですよ。それで、引っ越しや修繕している様子とか、隣にいる人が絵に描いた下町という感じでおはぎとか差し入れてくれる様子を、父の癌が分かってから亡くなるまでの四か月間、110枚の絵手紙にして、毎日、一関にいる父に送りました。
----素晴らしい話です。
その時、絵手紙をまとめて描いたことと、先生にイラストを認められた事が、絵の道に入るきっかけになりましたね。父の死、絵を描くこと、千住に引っ越したことが、同時に1999年に起こりました。
----そうですか。
この蔵に引っ越してきたんですが、それまでは建築学視点で調査や研究の対象として、この蔵を見ていたんですが実体験で使うようになって、何かこの蔵を活用できないかと漠然と考えるようになったんです。それで、2000年の3月に卒業して、4月に先生の本が出て、5月にこの蔵で原画展を開きました。行き当たりばったりですけど。(笑)
----ははっ。
初めての個展の開催だったんですけど、思いがけず在学中の知り合いなどが、予想を上回ってちょくちょく来てくれたんですね。その人たちが、絵も面白がってくれるし、建物も面白がってくれる。世の中には、こういう人たちもいるんだなあと、手応えを感じたんです。それで、それからは、ほぼ一年のペースで個展を続けています。こうして、イラストレーターに、どんどんなっていきました。(笑)
----すごいというか、面白い話です。(笑) 仕事は結構、来たんですか?
そうですね。徐々に仕事が来るようになって・・・。つまり、一度も就職せずに、イラストの仕事を一人で独自にして14年になりました。すごいでしょう。一度も就職していないなんて(笑)。
----素晴らしいですね。(笑) 私はまた、どこか広告代理店にでも就職して、それ からイラストレーターになったのかな、と思っていました。
最初から、完全に一人で、誰にも教わらずに・・・。仕事の仕方すら分からなかったのが・・・。なんとか切り拓いてしまいましたね。(笑)
なかださんのアトリエ
----はあ、でも才能があるからですものね。才能がなかったら、仕事は来ませんから。
それと、建築出身なので、アーティストみたいに、自分の描きたいものを描く、というか、芸術を究めたいみたいな欲求が全然なくて・・・。クライアントの要望があって、設計して、家を建てるのと同じで、雑誌や新聞や個人でもいいんですけど、こういうものを描いてほしいという依頼があって、この媒体には、こんなタッチがいいとか、子供向けだったらもっと柔らかく描こうとか・・・。人に合わせて、その求められていることに最善を尽くすというのが結構好きというか・・・、建築家として学生時代から身に付いてきたことだったので、自己中心的に私の芸術はこれだ、というものは持ってませんね。
----素晴らしいですね。あっ、でも、建築家としての仕事、設計図みたいなものは、頼まれたりするんですか?
初期の頃は建築出身なので、設計とイラスト、両立できたらいいなと思っていたんですが、世の中、そううまくはいかず、どんどんイラストの方が多くなったので、今はほとんど建築をやっていませんけど、若い頃は何件か、ありましたね。最近だと、一関の実家の家と今、住んでいる千住にある私の家をリノベーションしましたね。
----ええ、これからの目標みたいなものは?
そうですね。一人で切り拓いてきた、というと聞こえがいいんですけど、行き当たりばったりのものを、一つ一つこなしてきたところがあるので、まさかイラストレーターになるとは思わなかったし、その後は文章を書く取材の仕事も、すごく増えて・・・。
----そうですよね。
こういうインタビューの仕事も、初めはこんな古い蔵に若い娘が引っ越してきて、絵を描いて、個展をやっているというので、面白くて雑誌やテレビの取材が来たんです。それから、段々に私がインタビューする側になりました。それは絵が全くなくて、文章だけの仕事もあるし、絵や文章半々の時もあります。原稿なんて書けるとは全く思っていなかったんですが、ただ最初は私がインタビューされる側だったので、こういう事を聞けばいいのかな、こういう風に進めたらいいのかな、ということが分かって、今は文章を書く仕事が増えてます。臨機応変に目の前にあるものをやってきて、まだ、この年になっても、別の切り口があるかもしれないと思って、もし何か機会があったら、ためらわずにチャレンジしてみたいと思っています。
個展の風景
----そうですか。
自分の仕事とかの目標ではないですけど、この蔵の立ち退きにあったことで・・・。古い建物が好きで、大学で都市史を学んでいたこともあって、古い建物がどんどん壊されていく・・・特に震災後、東北だけではなく東京でも建て替える事が多いんですけど、壊してしまったら、もう元には戻らないんですよね。そういった建物を建築的にリノベーションして、うまく活用したいな、という考えが自分がこの蔵の立ち退きにあうことで、すごく強く感じました。そういう活動が街のアイデンティティにも繋がると思うので、街の事はやっていきたいですね。
----ううん。
自分の絵画展というよりは、若い頃、右も左も分からず千住でイラストという知らない分野にチャレンジした時、千住の皆さんが助けてくれ、また応援してくれて、すごく環境がよかったんですね。なので、千住の街にも恩返ししたいと思っていますし、古い建物を活用するということを、今まで以上に一生懸命にやっていきたい、と思っています。
----そうですか。それでは最後に「きらり☆メッセージ」ということで、一関市の若い方々に、何かメッセージをお願いしたいのですが・・・。
チャンスがあったら、すごく大きなチャンスでなくても、小さいことでもいいので、面白がって躊躇せずにチャレンジしていけばいいと思います。例えば、自分がこうだと、この道を決めていたのに、違う道が来たっていいじゃない。みたいな・・・。(笑)
----なるほど、今の言葉を一関市へのメッセージにしたいと思います。今日はどうも、ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。
※1 日本の建築史家 専門は、イタリア建築・都市史。法政大学デザイン工学部教授、東京大学工学博士。