2015年10月21日

watoさん インタビュー

今回はフードコーディネーター、イラストレーター、管理栄養士という三つの顔を持つ、watoさんを紹介します。
watoさんは、以前インタビューした菅原正二さんの長女です。

主な著作物
「日替わり野菜弁当」 青春出版社
「キレイにやせる美人レシピ」 成美堂出版
「リトルギフト」 サンクチュアリ出版
「親子でニコニコ朝ごはん」 ワニブックス
「かんたん、満足やせ*ごはん」 学研プラス
「春夏秋冬ごはん帖」 ヴィレッジブックス


今日はよろしくお願いします。

こちらこそ。父のインタビュー記事を読ませていただきました。

そうですか。ありがとうございます。

今までにwatoさんが出版した本を持ってくる。

ずいぶん、ありますね。

記事にはイラスト集とありましたけど、レシピ集ですね。

これは編集の方から、話が来たんですか?

そうですね。「本を出しませんか?」という話がありまして。

一番最初に本を出されてから、それから広がっていったんですよね。

一番、最初の本は2009年に出したんですけど、その前から、割りとメディアでお仕事をしていたので、それで声を掛けていただいたという感じでしょうね。栄養士の免許を持っているので、カロリー計算とか、栄養の説明が付いている本が多いです。ダイエット情報誌とか・・・。

もともとは大妻女子短大を出られて、病院に勤めていらしたんですものね。

そうですね、短大を出て、病院に四年勤めて、そこを辞めて夜にイラストの学校に行きました。

パレットクラブですね。

そうです。夜はパレットクラブスクールに行きまして、昼はスープ屋さんでバイトして、そういう生活が六年続いて、その後フリーランスになって、こういう本を出しました。それが2006年か2007年ぐらい・・。

すごいですね。普通、なかなか本とか出せないのに・・・。

ほんと、ラッキーでしたね。

スープ屋さんに勤めている時から、何かしてたんですか?

もうケータリングを始めていたので、いろんなイベントに料理を持っていって、パーティー料理を出していたりしていたので、人脈は広がりましたね。それから、五、六年経って、「まだやってる?」
みたいに声をかけていただいて、そこから広がったという感じですね。運だけですね。

いやいや、我々の先輩の島地さんが「人生は運と縁とセンスだ。努力はあまり関係ないんだ」と言いますからね。(笑)

努力もほしいとは思いますけど・・・。(笑)運と縁はありましたね。

その頃からカリー番長さんとは知り合いだったんですか?

カリー番長さんとは2001年ぐらいに知り合って、2002年頃からケータリングを始めようと思った時に、彼らはその3年ぐらい前から始めてたので、先輩なので、「どうやったらいいか、教えてください」と連絡を取ってそれからの付き合いですね。

自分たちの店舗は持ってないんですものね。

持ってる人もいますけどね。カリー番長さんは持ってないですよね。

車に積み込んで営業してますものね。

ケータリングって、二タイプあって、完全に仕込んで仕出し弁当みたいに行った先で並べるだけのものと、行った場所で作る場合があって、それはパーティ会場に調理器具があるかないか、という環境の問題があって、そこは依頼主さんとの打ち合わせですね。

そうですか。

半々のこともありますね。前菜は持っていって、メインは揚げたて、焼きたてを出す。それは打ち合わせで決めていきます。

なるほど、弁当屋さんとは違うんですね。

お弁当の依頼もありますけど、ただ、お弁当を届けて終わりというよりは、イベントやパーティーのテーマがあって、そこに関連した料理を届けて、その場づくりのピースの一つになれるか、オリジナリティを出せればいいかな、と・・・。

さすがに違いますね。

非日常を届けるのが、ケータリングだと思いますので、なるべくテーマを聞いてヒントをもらってから、作ってますね。

あの、ちょっと前に日韓ワールドカップがありましたよね。

はい。

その時に私、組織委員会の一人に選ばれまして、大阪でサブディレクターをやりました。その時にケータリングをどうしようか?みたいな話になって、私、その時、初めてケータリングという言葉を知りまして、弁当屋さんじゃないの?と思ってたんですが、スタッフの方に料理をお出しする、という感じで、まあ、何かテーマみたいなものが、あるんですよ。

企業がやってるビュッフェみたいなものもあれば、私みたいに個人でやってると、大規模のものは出来ませんけど、細かく寄り添ったものが、出来ないかな?と・・・。唐揚げとフライドポテトだけじゃないものを作りたいなと・・・。

子供の頃から料理は好きだったんですか?

母親の手伝いをする程度で・・・。中学に入ってから、意識し始めましたね。でも、料理することを職業にするとは思わなかったので、とりあえず一関一高に行こうかな、と。

すごいですね。

両親とも一高だったんで・・・。

あっ、お母さんも一高生だったんですか?お父さんとは同級生で?

いえ、母は七つほど、年下ですね。

そうですか、お母さん、薬剤師ですものね。料理の才能はお母さんから受け継いだんですね。絵の方は?

父から受け継ぎました。

お父さん、家で絵を描いたりするんですか?

描きますよ。

ベイシーにあるコーヒーカップに猫の絵があって、お父さんが描いたんですよね。

ええ、でもあれは猫じゃなくて、自画像なんですって。

自画像?

コーヒー豆の麻袋を被った自画像なんですよ。猫みたいに見えますけど、麻袋なんですよ。

麻袋を被った菅原正二ですか・・・。

あまり。知られてませんけど・・・。

面白いですね。(笑)

リスとかバンビとか、ディズニーや手塚治虫先生の影響を受けているので、動物を描くのが上手ですよ。

音楽の方かと思ったんですけど・・・。

どっちも・・・。ベイシーのポスターも、昔は全部手書きで、レタリングもしてましたから・・・。

カッコいいですね。私の父も一高ですけど、ただの酒飲みですからね。(笑)

一人っ子で、両親とも共働きで、一人の時間は結構あって、お絵かきするのが好きでした。絵を描いてると、下手でも上手くても、「描け描け」って、「何でもいいから続けろ」というのが父の教えでしたね。褒めて伸ばすタイプですね。私は褒められて木に登るタイプで・・・。(笑)自分は絵が好きなんだ、って、そこでいい具合に刷り込まれて、それで続けようと何の疑問もなくきて、今に至るという。

いやあ、確か病院でwatoさんの絵が飾られているとか・・・。

盛岡にあるゆとりが丘クリニックですね。

病院の人はどこかでwatoさんの絵を見られたんですか?

たぶん、父が見せたんですね。

知り合いですね。ああ、それで面白い絵だと・・・。

今も飾ってあるんですか?

今も飾ってありますね。一年半ほど前に伺った時にまだ飾ってありました。いっぱい飾ってくれてました。

やっぱり患者さんの精神にいい影響を与える、ということですよね。

そうおっしゃってくれてましたけど。そうだといいですね・・・。

そうですよ。グロい絵だったら、飾らないですものね。

グロくないですよ。(笑)

ほのぼのとしてるから、いいんですものね。

原画がたくさん自宅にしまい込んであるので、もったいないので、飾ろうかなと・・・。

それなら額に入れて、サロン・ド・シマジに飾ったらいいと思いますよ。

いえいえ、そんな・・・。

いや、あそこは金持ちが集まりますから、売れますって・・・。(笑)

しばし、watoさんの絵を見る。

これは何の画材を使ってるんですか?

色鉛筆やクレヨン、絵の具、いろいろ、ごちゃ混ぜですね。これは猫にまつわる本で、いろんな人が19人ぐらいで、猫の絵を描いてますね。

猫はお好きですか?

動物が好きですね。でも、この中で猫を飼ってないのは私だけなんですよ。私だけ築地の猫を写真に撮ったんですよ。毛のある四つ足が好きですね。アルパカとか・・・。

アルパカ・・・。この前子供と荒川遊園地に行ったらアルパカがいて、触りましたよ。

那須にアルパカ牧場というのがあって、400頭ぐらいいるんですよ。

そんなのがあるんですか?

そこに通ってたら、所長と仲良くなって、アルパカのコラムを書いたという。

すごいですね。でも意外とアルパカって汚いんですよね。

ああ、泥んこですよ。

ところで一関は料理を作るのが好きな人多いですよね。小松彩夏さんはニコニコチャンネルでこまっちゃんねるというのをやってるんですけど、料理を作ってレシピを載せてますし、リズム食堂の長男のプロレスラーのYAMATO選手はフードコーディネーターですし、志田友美さんはNHKのEテレのスイエンサーで見事な料理の腕を披露してますからね。今、執筆中のものって、あるんですか?

ないですよ。

一関のミニコミ誌に連載してましたよね。

『はなうた』ですか?はなうた自体、なくなりましたよ。

いつですか?

結構、急でしたよ。次に載せる原稿を書いて渡してたのに、来月から無くなると・・・。

それは何ですかね?資金難ですかね。

深くは追及していませんけど・・・。残念と思って・・・。段々、薄くなってきて・・・。結構はなうたを楽しみにしていた方はたくさんいらしてたんですけどね。

一応、一関市民は目を通してるんじゃないですかね。私の母も知ってましたし・・・。

また、何かあれば・・・。はなうたを見てると、一関にこんなにお店があったんだと・・・。いつか行ってみたいと思って見てたんですけど・・・。

島地さんから、美味しい一関のお店を教えてもらいまして・・・。

どこですか?

富澤って知ってますか?

ああ、知ってますよ。前、一緒に行きました。島地さんが家に来たとき、父と一緒に大勢で行きました。

そうですか。私は知らなかったんですよ。富澤は知ってましたけど、普通の魚屋さんだと思って・・・。奥に食べるところがあるとは。

ええ、奥に素敵な蔵があるんですよね。一階がすごい喜ばれるんですよ。

後はアビエントですかね。

アビエントは行ったこと、ないんですよ。地主町にあるバーですよね。

マスターがモデルをされていたとかで、イケメンなんですよ。

そうですか。

仙台でバーの修行をされていた時にモデルをやってたんですよね。松本旅館の息子ですよ。

さすが、いろんな方、ご存知ですね。(笑)

一関の情報は並じゃないですよ。(笑)

私は高校終わって、一関を出てますから・・・。高校時代、行くところなんか限られているじゃないですか。飲み屋に行くわけじゃないし、全然分からないですよね。帰省しても行く所が決まってますからね。両親と一緒にいるから、なかなか知らないんですよね。後で教えてもらおう。

いえいえ、そんなことないんですけどね。一関に帰ったら必ず行くのはアイスのポラーノ。あそこは美味しいですよね。休みの日はお客さんが一杯ですよね。車のナンバーを見ると、どこから来てるんだ?みたいな。

今くらいの季節だとドライブしたら、新緑で気持ちがいいですよね。二年前に免許、取ったんですよ。

ブログに書いてましたね。車を買われたんですか?

東京にはシェアカーがあちこちにあるので、それを利用してます。

その方が安いんですかね。

毎日は乗らないし、駐車場代はかからないし・・・。すぐ隣にあるので、マイカーですよね。都内はレンタカーとシェアカーで十分ですよ。丸一日乗るなら、レンタカーの方が安いし、ちょい乗りなら、シェアカーの方が安いんです。

あの、二年前までは、どうやって料理を運んでたんですか?

タクシーか主催者の人に来てもらうか・・・、都心に住んでいたので、楽ですね。今でも場合によってはタクシーを使いますね。会場に行って、荷物を下ろして、駐車場探すより、タクシーでぱっと行った方が早いですよね。交通費は別途いただくので、タクシーの方が安かったりするんですよ。

あの、それでよかったのに、どうして免許を取ったんですか?

震災がきっかけですよね。自力で沿岸を回りたかったんですよ。震災後、私が最初に帰ったのは新幹線開通直後、ゴールデンウイークだったんですが、足がないから、沿岸に行けなくて、その後ようやく支援団体に入って、車三台ぐらいに乗り合わせて、岩手の沿岸に行って、保育園や集会所でボランティアしていて・・・。その後も月に一回、一関に帰省していたんですけど、沿岸に行く手段がなかったんですよね。電車もないし。車があれば、皆の予定を合わせなくても、行こうと思った時に行けますし・・・。こんなに近くなのに、というもどかしさがあって・・・。団体で行った時に知り合った人もいるので、気軽な感じで行きたいんですよ。そういう気持ちが募って、免許を取ったんです。後はこう言っては何ですけど、親が年を取ってきたので、何かあった時、すぐ行けるようにした方がいいのかな、というのもあって・・・。三つめは那須のアルパカ牧場に頻繁に行きたいというのがあって・・・。ここも車じゃないと、行きづらいんですよ。(笑)いつも友達と予定を合わせて行っていたので・・・。当初は東京で仕事で使うということは考えてなくて・・・。そういう理由で免許を取ったんですけど、いざ取ってみると、都内でもすごい便利で・・・。

そうですよね。

大船渡に夜行バスで行って、レンタカーを借りて陸前高田まで一人で行って・・・。これが、やりたかったんだって。バスが非常に少ないので、車がないと、なかなか行けないんですよ。

現地に行って、料理を作るということですか?

そうですね。いろいろなタイプがあって、この間はある仮設集落に行って、おばあちゃん達とお料理教室をやりました。冬だったので、牡蠣の料理を作って、みんなで食べました。そこは以前からボランティアで行っていたところで、だいぶ整ってきたので、今度はボランティアではなくて、我々が仕事として依頼したいということを、言ってくださって・・・。この前はワカメ漁を手伝ったり、のど自慢大会を企画して、集会所のおばあちゃん達と過ごしたり・・・。

まだ仮設住宅の方って、いらっしゃるんですか?

いますよ。まだ大勢いますよ。

いまだにですか?

いっぱい、いますよ。

この暑い夏どうするんですか?

暑いし、寒いし・・・。

エアコンとか、あるんですか?

一応ありますけど、プレハブですからね。横からの照り返しもあるし・・・。そうですよね。当初、二年といわれていたのに、もう五年になろうとしてますよね・・・。とは言え、徐々に高台に移転が始まってます。ただ、それには新たな問題があって、お年寄りなんかは仮設の中でコミュニティが出来て、仲良くなってる人達がいるのに、移転となると、また、そこで新しいコミュニティを作らないといけないんです。何回も再構築していかないといけないという難しさがあるんです。今は瓦礫撤去みたいなボランティアはないですけど、皆が集まる場所を作るようなお手伝いとか、楽しく笑いあえる時間が出来たらいいな、とか・・・。陸前高田は小さい頃、海水浴に行っていたこともあって、衝撃も大きいんですよ。

ああいう津波が来るとは、思わなかったですね。

観光する場所がたくさんあるので、遊びに行ったらいいと思いますよ。

そうですよね。遊びに行って、お金を落とせばいいんですよ。

そうです。食べるところもありますからね。

旅館とかあるんですか?

ありますよ。でも、埋まってるんですよ。まだ工事関係者の方が泊まっていらっしゃるので、早めに予約すれば、大丈夫ですよ。あと、民泊といって、民家に泊まらせてもらうシステムも出来ているので、問い合わせれば方法はいろいろとあります。新しいビジネスホテルみたいなものも出来てきてますね。最初の頃は集会所で寝袋で寝たり、保育園で寝たりしてました。(笑)

スーパーもあるんですか?

ありますよ。イオンもできましたし・・・。

私、一高を卒業した後、国鉄に入って、最初に配属されたのが釜石だったので、まさか釜石が津波であんな風になるとは、思わなかったですね。鉄の町だし、ラグビーで有名だったので、強いイメージがあったんですけどね。

釜石は団体で行った時に、市役所の方と知り合いになって、釜石の街を案内してもらいました。仲良しになったケーキ屋さんとブレイクタイムをしたり・・・。釜石に父の友人が経営しているジャズ喫茶があって、復興のお手伝いに行ったこともあるんですよ。

たしか、一階が流された、という話しを聞いたような・・・。

ジャズ喫茶は二階にあったので、レコードとかは大丈夫でしたので、ちょっと改装して営業できました。

それは、良かったですね。あの、震災の時、ベイシーは大丈夫だったんですか?

ベイシーはヒビが結構、入って・・・。蔵で土壁なので、崩れたりして・・・。二階の大きな梁が割れたりして、二か月ぐらいで直しました。でも、最近、音が外にすごい漏れてるんですよ。(笑)どこか、大きなヒビがあるんじゃないかと・・・。私も東京にいて、つぶれたと思いましたよ。母とはすぐ連絡が付いたんですけど、父とは連絡がつかなかったので。逃げないで支えて、下敷きになったんじゃないか、とか・・・。レコードの下敷きになったとか・・・。

お父さんですからね。三トンあるレコードを身体で支えててもおかしくないですからね。(笑)

東京の父の知り合いからも、ひっきりなしに父の安否をうかがう電話が来たんですけど、怪我もなく大丈夫でした。

真面目な話になりますけど、これから、やりたいことって、ありますか?

これは言いだしてから、もう何年にもなるんですけど、日本の郷土料理に興味があって、その郷土料理を教えてもらいに行く旅に出たいです。そこに住むおばあちゃんに習いたいです。できれば東北全土を回ってから、日本全国を回るのが楽しそうですけど・・・。

それは何かに発表するんですか?

そうですね。やはり写真や文がある書籍という形がいいと思うんです。映像という形がいいんじゃないかという人もいますけど、それはハードルが高いので、まずはレシピで。郷土料理って、そこに住む人には日常過ぎて、レシピってないんですよ。数値化されていない。そこに住んでいる人にだけ伝承されてる。最近ではもう伝承が止まっている。でも、その料理が生まれた背景がそこにはあって、気候とか歴史とか・・・。どうしてこの食材を使うのか、調べてみると面白くて・・・。これは残した方がいいんじゃないかと思って・・・。ただ郷土料理を知ってるのって、私から見るとおばあちゃんの世代であって、私の母の世代は洋食が流行って洋食に憧れた世代のような気がするんです。私の母も煮込みビーフシチューやロールキャベツが得意で美味しいんです。岩手の郷土料理の「すいとん」や「はっと」とかは、あまり作らないんですよ。そうすると私の世代がおばあちゃんの世代に聞いておかないと、なかなか残っていかないんじゃないかと・・・。そうなると大分急がないと・・・。

もう八十ぐらいですからね・・・。

このことを思いついてから、もう四、五年経っていますけど、なかなか実行出来なくて・・・。いろんな土地に行って、その場所のおばあちゃんに会いたいっていうのが夢ですかね。ただ自分のスケジュールもあるし、予算的なこともあって、いきなり全国は回れないので、まずは知り合いのおばあちゃんでも、訪ねるのがいいんじゃないかと思ってるんですけど・・・。どこに行ったらいいのか、というのが分からずにいるんですけどね。私の母方の祖母は名古屋から嫁いでるので、名古屋の郷土料理を教えてもらうんですよ。押し寿司とか・・・。日本に昔からあるような料理を覚えて、その料理をそのまま作れるようにもなりたいし、今風にアレンジを加えて出してみたいな、というのがありますね。ライフワークになるといいですね。それが終わったら、世界に行って・・・。

すごいですね。

フランスの田舎町に行ってとか、妄想は膨らみますね。(笑)

でっぷりと太ったおばあさんが、いたりしますよね。

可愛いスカート穿いて花柄のスカーフを被ってと、そういうおばあちゃんに憧れますね。何か所かは、やってるんですよ。イベントに呼ばれて島根に行ったことがあって、その時、廃校になる小学校を使って文化祭をやろうという企画があって、地元と早稲田大学の建築科のチームが組んで、地域の再生活性化というテーマで、地域の人たちと地元の食材を使って、私が新しい食べ方を提案して、地元の人は普段よく食べている料理を私に教えてくれる。一緒に料理を作って、それを文化祭で販売するという企画を立てて、これかなっていう感じはしました。知らない食材を見るのも楽しいし、向こうの方たちと会うのも楽しいし、私の提案にこういう食べ方もあるのかと、向こうの方も喜んでくれて・・・。陸前高田に行った時も、牡蠣という食材があって、自分たちだと煮付けるか鍋にするか、フライは若い人がいないからしないし・・・。食べ方が偏って、飽きるというので、「ではミルクシチューを作ってみます?」と言って作ったらすごい洋風だと言って喜んでくれて、そのやり取りが楽しかったので、そういう交流が出来たらいいなと・・・。その規模を小さくして、岩手県内でやるのも、楽しそうですけどね。岩手県は広いから五つのエリアに分かれて話しますけど、その五つでも方言も文化も元々の藩も違うし・・・。

そうですね、岩手県内でも、面白いものができそうですね。

仕事で遠野にひっつみを習いに行ったことがあって、遠野のおばあちゃんに習って、それもよかったですね。おばあちゃん、募集中です。一関市内の方でも、いいです。

最後に一関の方にメッセージ、ありませんか?

私自身、一関の良さをあまり知らないので、楽しいお店、愉快な人、面白い一関の情報がありましたら、ぜひ、FMあすも「watoのおむすびラヂオ」まで、お手紙、待ってます。

うまく、まとめましたね。(笑)今日はどうもありがとうございました。

2015年10月13日

島地勝彦氏・菅原正二氏 対談

先日、東京の大塚で関中・一高会の同窓会が行われ、島地勝彦氏、菅原正二氏の対談が行われました。その時の模様をお送りいたします。


司会  定刻になりましたので、始めさせていただきます。関中/一高会結成60周年の記念対談として、対談者のお二人に登壇してもらいます。最初は島地勝彦さん、エッセイストでバーマンをやっておられます。第59回昭和35年の卒業です。二人目は一関の地主町から一高に曲がる角にあるジャズ喫茶ベイシーの店主、菅原正二さん、第60回昭和36年の卒業です。実はお二人とも水商売の方でして、島地さんは今日は伊勢丹にあるバーの出勤日なんですが、それをふってこちらに来られました。菅原さんは今日はジャズ喫茶を開く予定だったんですが、それをクローズして、こちらに来られました。実は伊勢丹のバーもジャズ喫茶ベイシーも休日になると、全国からお客さんがいらっしゃいます。そういう方々をがっかりさせる。これも一関一高を愛するが故でございます。お二人に特徴的なことは二つあります。一つは非常にこだわりの人です。もう一つは非常に素晴らしい方との出会いがあって、今日がある。そんな個性的な二人がガチンコでぶつかって、どんな話が出てくるのか、60周年にふさわしい面白い話が出るんじゃないかと期待しております。よろしくお願いします。

島地  私は山手線の恵比寿から来れば、この会場まですぐなんですが、正二さんは今日一番の新幹線に乗って、昨日の夜まで原稿を書いて疲労(ひろう)なんです。ただ、皆さんに会って元気をいただいたということです。

菅原  島地さんは広尾(ひろお)に住んでますよね。(笑)

島地  はははっ、私は広尾に小さなマンションを持っております。一関にも小さなマンションを持ってます。一関には三か月に一回ぐらい一週間ぐらい、帰ってます。そのぐらい、私は一関を愛してます。一関一高も愛してます。一高時代は学校嫌いの勉強好きだったかなと、反省してます。本はよく読みました。図書館の本は私が一番読んだんじゃないかというぐらい、体育の時間をさぼってはしよっちゅう本ばかり読んでて、現在もこういう商売をやっているというのは高校というのは人生において、相当、影響があるんじゃないかと思ってます。中学校から勉強を始めて、いい大学に入る。それも楽な人生でしょうね。正二さんは早稲田を出てるんだから、大したものです。いつも会うと「東京オリンピックまでは元気でやろうな」と言い合ってます。我々は物書きと水商売ということで、共通点があります。私の場合は完全に集英社を引退してから、ベイシーに通うようになり、今では無二の親友です。一週間に一回はFAXを交換して、電話をしています。この指輪、見てください。同じ指輪です。結婚しているわけではないんですよ。(笑)会うと充電してるんです。エネルギーを交換し合っているんです。そういう仲です。

菅原  充電ですけれども、大事ですよね。青春時代に雷に打たれたようなショックを受けたことが、皆さんもあるでしょうけど、これが充電で今日まで来ました。還暦を過ぎたころから、雷が怖くて横転しっ放しでした。ここのところを何とかしたいと四苦八苦して無理やり充電して、こんなことになってると・・・。(笑)

島地  皆さんもそうでしょうけど、高校も一学年下だと、全然交流がありませんよね。私もそうだったんですが、やはり『全ての道はローマに通ず』勝手にお互いここまで人生をやってきて、やはり同じようなところに落ち着いたということでしょう。

菅原  ローマまで言われると困りますけど、私は一関の衣川で道に迷ったことがあるんです。厳美から平泉に抜けようと思って。それで分からなくなって、農業やってるおじさんに「この道はどこへ行くんですか?」と聞いたら一言「どこさ行くのも一緒だ」と。(笑)ローマの道と一緒です。あの時、私は悟りました。

島地  そうですか。その農業をしてるおじさんが、現在日本に一杯いる有名な評論家よりも上だと。これは今先生がおっしゃってたことですけど「名物に旨い物なし、有名人に大したやつはいないよ」と。その言葉を私は今でも信じてます。私がベイシーによく行きます。渡辺貞夫さんとか、正二さんの人脈でよく呼びますけど、一関の経済効果はすごいと思いますよ。ホテルが満杯なんですよ。だから、私は一関に小さなマンションを買ったんです。いつ行っても、安心して泊まれるように。ベイシーの経済効果はすごいですよ。今日は一関市長はいませんか? 私は市長に言いたいですね。本当に頑張ってますよ。私は週末にしか、お店に出てませんが、正二さんは毎日ですからね。でも、一学年下で良かった。こういう人が、私より上だったら、相当、頭を下げなくてはいけなかったですよ。ここは少しばかり、私の方が強運だったかなと、思ってます。

菅原  高校時代は、島地さんは文学だったし、私はラッパばかり、吹いてましたからね。あの当時、一高には古藤先生がいらっしゃいましたからね。古藤先生が音楽のレベルを非常に上げたと思いますよ。古藤先生は芸大を出て、ベイシーに来て、カウントベイシーを聞かせたら、「なんとタイミングのいい音楽でしょう」と見事にベイシーの核心を衝くんですね。音楽の時間に生徒をベイシーに連れてきて、レコードコンサートを開いたりするんですよ。ですから、古藤先生が一関の音楽のレベルを上げたと思いますね。

島地  まあ一関一高には、いろんな面白い先生がいましたね。私が一番影響されたのは、英語の柳瀬先生ですね。

菅原  柳瀬先生(笑)

島地  呑んべーで。この先生に相当影響されて・・・。

菅原  柳瀬先生がブラスバンド部の顧問だったんですよ。

島地  そうなんですか・・・。私は音楽は全然ダメだったんですが、柳瀬先生には英語の原書を読むことを教わりましたね。それで柳瀬先生は大立山に家がありまして、私はしょっちゅう先生の家に行きましたが、すごいのはローソクで暮らしてるんです。「先生、どうしてローソクで暮らしてるんですか?」って聞いたら、電気料金を滞納していたらしくて、東北電力に「料金を払わなかったら、電気を止める」と言われて、飄々とした先生ですから「どうぞ、どうぞ」と言ったら、本当に電気を切られたそうです。私はローソクの炎がこんなに美しいと感じたのは、柳瀬先生の大立山の家でしたね。今は時効ですから話しますけど、すごいのは「ちょっと、まあ呑みに行きましょう」と、柳瀬先生は自分の家が狭いので、バーに案内してくれたんですよ。それで、私はバー通いを覚えて、今こうして、バーマンをやってるんですよ。みんなにお返しをしようと思って・・・。バーのカウンターは人生の勉強机だと、私は痛感しております。いろんなことを、バーのカウンターの上で、お客様やバーマンに教わって、私も失敗談をお話ししたりして、エッセイにも書いてます。それが現在の私なんですが、正二さんのすごいのは、私はいつも感心してるんですが、LPレコード、25分ですか・・・。

菅原  平均すると25分ですね。

島地  私と夢中になって話していても、正二さんは耳は聴いていて、LPレコードの曲が終わりごろになると、すっと立ち上がって、針を自分で落とす。そこは聖域なんですね。私なんかいい加減で、シェイカーを振るのが、面倒くさいと伊勢丹の若いやつに振らせて、出来上がったものは私がお客様の前に置きますけど、四十肩というのがありますけど、七十肩になって、痛くてシェーカーを振っていられなくなったんですよ。私も考えてスローで振っていたんです。結構、私のバーには一流のバーマンが来るんですよ。林さんという世界大会で優勝したバーマンがジーッと見て、「島地先生のスローシェーキングは、なかなか味がありますね」と、言うので、まあ、こういうのもあるんでしょうと、黙ってましたよ。(笑) 恥もうまく隠せるようになると、年の功ですね。私は74歳、庄司さんは73歳、まあオリンピックまでは元気だと思ってます。実は伊勢丹からは「86歳までバーマンをやってくれ」と言われてます。あと12年ですよ。それは不可能だと半分思ってます。でも、可能かもしれない。70を過ぎて、どう思いますか? 正二さん・・・。

菅原  なんか、非常にすがすがしいというか、邪念が消えましたし、向上心も捨てました。非常に楽になりましたね。向上心といいますけど、向上心も邪念なんですよ。もっと上手くなろうとか、もっといい演奏をしようとか・・・。こういうことを渡辺貞夫さんに言うと、叱られるんですけど・・・。渡辺貞夫さんは向上心の塊ですから。

島地  いくつなんですか?

菅原  私のちょうど10歳上ですから、83歳。

島地  すごいね。

菅原  とどまるところを知らない。逆説的に向上心を捨てた、と言うと「ダメじゃない。正ちゃん」と叱られるんです。でも、それには裏があるんです。捨てていくから、味が出るんです。にっちもさっちも行かなくなって、45年間経ちますから、これ以上、向上心を持っても明るい未来はないというのが、分かってますから・・・。このままでいいんだ、と。一種の開き直りですね。

島地  この指輪はスカル、骸骨。なぜ、こういう指輪をしているかというと、これを見て「年齢とともに死を忘れるな」ということを思っているわけです。人類というのは、死に対する行進ですよ。それを粛々として、受け入れるべきであって、もがいたりしては、いけないと思います。それが、私の74年の人生観で、もう一つの私の夢は年齢不詳になりたい、ということです。それを目標に、また生きがいに生きてるんですけど、なかなか難しいですね。(笑)

菅原  何者にもならない、というのも手ですよ。

島地  無というね。でも、正二さんは何者でもない、と言いながら、いつもお店に原稿用紙を置いて、ステレオサウンドに書いて、朝日新聞に連載して、今日の事も朝日新聞に載せるそうです。

菅原  今日も朝日新聞の一関支部の記者がわざわざ取材にいらしてくれてます。

島地  正二さんと私の違うところは、一つあって、全国からいろんなファンがベイシーにやってくるということです。北海道から若者や引退した人が一杯来て、初めて会う。懐かしい顔に会うというのもいいですけど、初めて会う興奮というのもなかなかいいものです。向こうが勇気を持って、直当たりしてくるんです。沖縄からも、この前いらしてましたよね。すごいでしょう? それは正二さんに対する想いだと、思いますよ。

菅原  それは渡辺貞夫さんのライブを間違えて、一週間早く来ちゃったの。(笑)来週ですよ、って言ったら「じゃあ、また、来ます」って、帰っちゃったの。昨日は西のお客さんが多かったですね。四国の香川県から来た、博多から来た、大阪から来た、と。

島地  私は正二さんが全国区になったのは、テレビの「ヨルタモリ」でタモリが正二さんに憑依をして、岩手のジャズ喫茶の吉原さんの役をやったからだと思いますよ。

菅原  あれはタモリが勝手にやってるんですよ。相談してやってるんじゃないかと言われるんですけどね。

島地  でも、正二さんの特徴をなかなか上手く、表現してますよね。

菅原  タモリは天才です。私が笑っちゃいますから。(笑)よく似せて、しゃべってますよ。あれは面白い番組ですね。

島地  私もほとんどテレビは見ませんけど、あの番組は必ず見てます。やっぱり、吉原さんが一番いいですね。ほかのやつはダメ。

菅原  言いやすいんでしょう。ジャズのことだし。

島地  よく知ってるから、憑依しやすいんでしょうね。

菅原  島地さんの書いた本の中に『悪党はケータイを持たない』というのが、ありますけど、私はケータイを持ってないんです。タモリが私の行方を捜してるんです。行方不明になっちゃうんですよ、店を出ると・・・。

島地  なるほどね。

菅原  タモリが「どこに行っちゃったんですか?」と。 

島地  正二さんはケータイを持たないけど、ケータイを持った美人を携帯するって、言ってますよ。(笑)

菅原  そういうところは、頭がいいからね。(笑) ところで、45年間も一高前で定点観測してますと、いろいろ変わりますね、生徒の質も・・・。ある時から、男女が手をつないで平気な顔をして、歩いてますし、最近は中高一貫になったので、中学生が通るんですね。中学生は挨拶するんですよ。私も「お疲れさまでした」と挨拶を返したりして。(笑)

島地  中高一貫教育ですが、校長先生に聞いたんですが、中高一貫にしないと、日本の学力は間に合わないみたいですね。今、一高の先生は若返って、予備校みたいになりましたね。

菅原  それは、どうでしょう。(笑)

島地  ベイシーに中学生や高校生が入ってくるのを見たことがありますが、学割で安いんですよね。

菅原  タダでもいいんですよ。高校生なんかは。

島地  将来の布石を打ってると思うんですよ。このことは重要ですよ。伊勢丹は厳しいところで、18歳、19歳の人が入ってくると、お酒はダメでコーヒーや紅茶を出すんです。お酒は800円でコーヒーは2000円で紅茶は1500円です。だから、「高いの飲ませるより、安いお酒でいいんじゃないか」と、私は言ってるんですが、伊勢丹側は「ダメです」と。営業が三、四人、いますからね。もし私に直当たりしたかったら、いつでも皆さんをお待ちしております。人生の悩み事でもなんでも相談してください。私で分からなければ、正二さんに振りますから。

菅原  一番最初のテーマを忘れてました。人生の初期の段階で巨大な人に出会って、心酔して、そのことが非常に重要じゃないかと・・・。それで今日、こうなってると・・・。島地さんは、ご存じの通り、今東光大僧正、開高健、柴田錬三郎の薫陶を受けて・・・。まあ、そのように立派にはなってませんけど、肩に背負って死者が甦ってますから。私は学生時代から、ジャズの神様の野口久光先生。他にもいらっしゃいましたけど、野口先生が圧倒的だったんです。その後、カウントベイシーが現れて・・・。どうも、大物に会う運命なんですね。そういう人たちと付き合うようになって、それが財産ですね。

島地  よく分かります。私も世間的に立派な今先生、柴田先生、開高先生に初めて会った時、こっちがその人の作品を読んで尊敬してると「おっ、こいつ可愛いやつだ」と思うんですね。そのぐらい作家というやつは孤独なんでしょうね。今、正二さんが言った野口先生の素晴らしいのは、映画のポスターは世界一の名匠ですね。『居酒屋』・・・。

菅原  『禁じられた遊び』もそうですし、『大人はわかってくれない』のポスターはトリュフォー監督が一生、自分の部屋に飾ってましたから。

島地  それぐらい凄い人なんです。

菅原  フランスの映画より、ポスターの方が芸術的でしたから。今、各地で野口先生の展覧会をやってます。そのうち、また、大きいことを考えてますけど。

島地  皆さんもそうでしょうけど、社会に出てから・・・。私はたまたま編集者になりましたけど、相性でしょうね、人間というのは。究極、人生は運と縁ですよ。努力はあまり関係ない気がしますね。どうですか?

菅原  私は棒を立てて倒れた方のどちらに進んでも、大差ない、と思いますね。

島地  芸術家という人は右へ行けば困難、左へ行けば艱難。歴史に名を残したアーティスト、たとえばモジリアーニやモーツァルト、藤田嗣治さんも、難しい方に行ってますね。そこが我々、一般人と命を削る芸術家というか挑戦者と違うところです。

管原  とりあえず、皆の行く方向と逆方向に行くことがコツなんです。

島地  そういうのは難しいんですよね。

管原  私は子供の頃から、そういう性質で。皆が西に行ったら東に行くみたいな。未だにそういう路線をやっております。

島地  でも、高校時代に古藤先生に出会って、音楽に目覚めて、早稲田に入って、ジャズをやって、それでプロの世界にも行ったんでしょう?

菅原  一応プロになったんですけど、上手い人はたくさん、いますからね。古藤先生からは、音楽というより、純粋ということを学びましたね。世の中にこんな純粋な人がいるのかと思いましたね。

島地  古藤先生、いい顔してましたからね。高校時代、いろんな先生に教わりましたけど、面白い先生がいましたね。今もいますかね。個性的な先生・・・。

管原  校長先生はたまにベイシーで、コーヒーを飲んでいきますけどね。

島地  今も先生はあだ名で呼ばれてるんですか?

管原  呼ばれてます。伝統なんですね。それが、いいですね。

島地  愛称ですよね。あだ名で呼ばれるのは・・・。考えるとすごい先生がいましたよね。英語の柳瀬先生には一番、影響されたんですが、集英社に入った時「今度は私が一杯」と、居酒屋に行って、呑んだこともあります。あの先生も早稲田だったかな。

管原  柳瀬先生はブラスバンド部の顧問だったんですが、一番良かったのは私の言うことに何も文句、言わなかったことですね。

島地  ははははっ。

菅原  好きだったら、自由にやれ、と。

島地  その頃から、リーダーだったんですか?

菅原  どこに行ってもリーダーをやらされたね。中学校の時にハーモニカクラブのリーダーをやって、高校ではブラスバンドのリーダーを・・・。早稲田ではハイソサエティ・オーケストラのリーダー。何か、割りと恐れもの知らずで、今は一人でこっそり・・・。

島地  はははっ、二人でオリンピックまで、頑張ろうと言ってましたが、ちょうどベイシーは50周年なんですよね。

管原  今、45年目なんで、オリンピックの年はちょうど50年なんですよ。50年やったから、まあいいか、と。

島地  もっと、やってくださいよ。二人でリニアモーターカーが走る2027年ですか。その時までやりましょうよ。一緒に乗って、やめましょうよ。名古屋で一杯呑んで。

菅原  我々が心酔していた人を振り返った場合、殺伐たる光景が広がっていまして、我々の力不足なのか・・・。我々を褒めてくださる人も、いるかいないか・・・。消えてってしまう・・・。

島地  人が本当に死ぬということは、誰の口にも上らない・・・。それが本当の死です。いずれ、我々も含めて、名前も忘れ、存在も忘れ・・・。それが本当の死です。私の師である、今東光、柴田錬三郎、開高健、この三人を全く知らない若者もバーに来るんですが、せっかくだから、上野にある今先生のお墓をお参りしていったらいいよ。必ず何かあるから、と言ってます。実は月一回、神戸に住んでいる若者が舌ガンで二か月後に手術するんで、「しばらく来れないよ。今度来ても、もう喋れないよ」その男は酒を呑み、葉巻を吸います。「もし、そうなっても見捨てないでください」「何、言ってるんだ。絶対に治るように祈ってるよ。ただ、一つだけお願いがある、帰りしなに上野寛永寺にある今先生の墓参りに行って、心からお願いして手術しなさい」それから、三、四か月後に戻ってきて、「先生のおっしゃる通りでした」5キロ位太って、ステージ1だったことも、ありますが、今、サロン・ド・シマジで酒を呑んで、葉巻を吸ってます。「この世には神様がいます。私をえこひいきしてくれる神様が・・・。私を罰する神様はいません」このように真剣に祈ると、そういう効果があるんです。これは朝日新聞にも書かれましたが、伊勢丹にあるサロン・ド・シマジはニューパワースポットと呼ばれてます。面白いでしょう?九か月ほど、やった頃に、本当に知らない男と女がめぐり合って、結婚して子供もいるんです。すごいのは伊勢丹の写真館で親子三人で写真を撮って、私のところに挨拶に来ました。三年もやってると、いろんな事が起こります。一人でも人口を増やしたのはすごいことです。(笑)

菅原  たしかに、すごいパワーだ。(笑)

島地  私が三か月に一回、一関に帰るのは正二さんと本当に深い話を深夜の1時頃まで、ぼそぼそと話してます。

菅原  島地さんがベイシーに来ると、全国から島地教の信者が集まってきて、大騒ぎなんですよ。この間は一週間にわたって、どんちゃん騒ぎで・・・。それを島地あらし、といいます。(笑)みんな、名刺を作ってるんですよ。剣道七段の方は「島地勝彦 公認 護衛官」(笑) 

島地  「島地勝彦 公認 執事」とか、みんな勝手に名刺を作って・・・。宗教化してるんです。モスク化してるんです。(笑)そこへ、正二さんがやってきて、二人でぼそぼそと。

菅原  見るからに怪しい。(笑)

島地  ただ、私は元気が正義だ、ということを若者に教えたい。その他の正義なんて、この世に絶対ないです。「天皇陛下万歳」と言って死んだのは、全くの誤りであって、絶対に人生は元気だということ、それ以外には何もありません。あと、もう一つ、今先生がお亡くなりになる前に書をいただいたんです。最後の絶筆です。遊戯三昧(ゆげざんまい)という言葉です。これは新宿のバーに飾ってあるんですが、この遊戯三昧という言葉ですが、天台宗で一番、難しい教えなんです。遊びの中に真実がある。正二さんを見てると分かりますね。(笑)

菅原  何か面白いことはないかと、そればかり考えてます。それ以上の野望というものが、全くなかったですね。そんなものです。

島地  私が一関に行ったのは、戦争で一家で疎開したんですが、正二さんは先祖伝来、一関にいて・・・。これは正二さんから聞いたんですけど、戦争の時代、三歳か四歳の頃、サーカスのライオンの肉を食べたことがあるそうです。話してくださいよ・・・。

菅原  上野動物園でもあったそうですが、ライオンが檻から出ると危険なので、猟友会で射殺することになって、私の祖父に話が来たそうです。じいさんは「撃つのが嫌だった」って言ってましたね。檻の中にいるのを撃つというのは・・・。まあ、戦時中だったので、その肉は無駄にはしなかったという。こういうオチがつきます。

島地  ライオンの肉を食べた人って、そうそういないと思いますよ。

菅原  渡辺貞夫さんにその話をしたら、俺、アフリカで食ったよ、と。

島地  そうなんです。私がライオンの肉を見たのはベルリンのデパートの地下一階に行きますと、ライオン、豹の肉が売ってるんです。一緒に行った通訳兼ドイツの留学生で、「島地さん、これライオンの肉ですよ」というので、「食いたい」と言ったら、でも、「ホテルでどうやって食べるかな」と。姿形は見ました。

菅原  ヒグマの刺身を食べたとか・・・。

島地  ヒグマは刺身かステーキですね。北海道の山の中で漁師が一か月かけて、一年に一頭、撃つかどうか。私はヒグマの全部位の肉を譲り受けて、食べました。一番、上手いのは左の腿ですね。油が三分の二、身が三分の一しかない。この脂身の中に何とすもも、クヌギ、栗、どんぐりの香りがする。獰猛な生き物ですけど、植物しか摂取しない。2000メートルの山に住んでますからね。鮭を食べるのは俗な熊ですよ。里山に降りてくるような熊です。崇高な熊は植物しか食べないんです。

菅原  島地さんが一関に帰って来た時に、富澤という美味しい魚屋さんがあって、本マスが入ったんです。島地さん、一関にいる一週間、毎日、富澤に行って本マスを食べてたんです。私らが行ったら、島地さんに食べられて品切れです。と。(笑)

島地  大型連休の後に現れる宮古の本マスが上手いという。なぜ私がこれを知ったかというと、いろんな作家と料亭に行って、「この本マスはどこから仕入れたの?」と聞くと、「宮古です」と。毎日、食べても飽きない。サケと違って品がいい。

菅原  本当に毎日、行ったんですよ。島地さんの講釈を聞きながら食べると、なんか美味しいですね。

島地  ぜひ皆さん、富澤の本マスを食べてください。それで、安いんですよ。料亭では一万円ぐらい、するんですが、富澤では800円。

菅原  それを知ってるから、余計おいしく感じるわけ。(笑)後で冷静に考えたら、「これ昔から食べてたよ」って。(笑)と、いうわけで、話は尽きないですね。

島地  ええ、この続きは一関でやりましょう。

菅原  あまり有意義な話はなかったですね。本当はいろいろ、あるんですけど・・・。(笑)

島地  我々は水商売ですから、夕暮れと共に、面白くなっていくんです。一関に帰省の際はぜひベイシーに立ち寄って、素晴らしいスピーカーでジャズを聴いてください。

菅原  まだ頑張って、やってますので。

島地  一関が誇る文化遺産です。いえ、世界遺産です。

司会  この続き、第二弾の対談はあるか、ないか・・・。皆さん、どうか楽しみにしていてください。それでは今日はどうも、ありがとうございました。