2016年2月11日

吉野崇さん インタビュー

シンガーソングライター、運動療法士、和菓子職人で、現在、平泉駅前の和菓子店『吉野屋』の四代目店主の吉野崇さんを紹介します。


[CD]ソングス
   あぜ道小道
ソングスに収録されている「大根コン」が、NHKのみんなの歌に採用された事で、注目を集める。

以前、watoさんにインタビューしたんですが、その際平泉駅前の吉野屋さんで、watoさんの一高時代の同級生と三人でコンサートをするという話があって、えっ、まだ一関にそんな人がいるの? と驚いたんですが・・・。

ピアニストの岩渕純さんと、シンガーソングライターの吉野崇さんですね。

吉野さんは一高を卒業されて大学はどこに行ったんですか?

山形大学ですね。途中編入という形でイリノイ州立大学へ。山形大学は休学という形だったんですが、結果的には辞めることになって、イリノイ州立大学を卒業した後、一年間仕事して、六年経った後、日本に帰ってきました。

音楽をやってたというわけでは、ないのですね。

そうです。うちは母が運動療法士をやって、父が和菓子職人をやっていて、アメリカには人間学を学びに行ったんです。人間の心理や素晴らしさを学びに山形大学に入ったんですが、授業は黒板に書かれたパラグラフを読んだり書いたりするだけで、つまらなくて(笑)それで、イリノイ州立大学に見学に行ったら、先生が素晴らしいんですね。大学には好きなアイスホッケーのチームもありましたから、転入するにはどうしたらいいんだろうかと・・・。この時、一番勉強しましたね。(笑)大学を卒業した後は人間学を生かしたトレーナーや山岳監視員の仕事をしました。あとは子供たちにボディワークやアイスホッケーのコーチをしたり、オーガニックのパン屋さんで働いたり、充実した毎日を送っていました。

音楽との出会いは何だったんですか?

私の母がリズム体操を講演していたんです。保育園や親子の会などで、体操したりしますよね。ええ。体育館で千人ぐらい集めて講演する時に、姉の同級生の古川 大(こがわ たかし)さんなどがピアノを弾いて、母のサポートバンドをしていたんです。私は、最初は母のサポートで「ここで後ろに回って」みたいに指示をするだけだったんですが、お年寄りや子供たちの前だと、バカが出来ないとダメなんですね。バカというのは、歌を唄ったり、お芝居をしたりということです。それで人前で歌を唄うように、なったんです。ハミングが得意だったので、曲を創るようになって、ピアノを弾いていた古川さんにこの曲を弾いてよと言ってるうちにコンビを組むようになって、今に至るというわけです。アメリカのホームステイ先の方がジャズが好きで、よく聞いていたんです。日本とアメリカの音楽がブレンドされたのがよかったんでしょうね。

NHKのみんなのうたに「大根コン」が採用されたのは?

いい質問ですね。いきなり、歌を唄えと言われても、歌えないんですよ。恥ずかしくて・・・。やはり、持ち歌みたいなものがないと。それと日本に帰って来た時、平泉が合併問題で揺れていたんですよ。コミュニケーション能力が低いな・・・。世界遺産の平泉は平和思想なのに何だろうな?と。それで、平泉らしい歌を創ろうと思って、キラキラした大人の歌を作りました。それが大根コンです。

レコーディングはどうしたんですか?

水車プロジェクトを立ち上げてる岡淳(おか まこと)さんという、有名なジャズのテナー・サックス奏者の方がいるんですが、この方が「MOCK HILL RECORDS」というレーベルを運営しているんです。そこから、CDを出すことになって、録音機材を持ってきてくれましたね。

「いーはとーぶ音楽祭」というコンサートを吉野屋でやってますよね。これについては?

平泉の世界遺産は仏教というわけではないです。藤原氏が平和を希求した結果、選んだ道が仏教なわけです。この浄土思想を基調にした文化を創り出していかなくてはならないわけです。その文化を広めるためにコンサートを企画しました。年二回、七年が経ちました。岩手出身ではないと、参加できないというわけでは、ないですよね。そうですけど、やはり地元の方が多いですよね。アメリカに行った時感じたんですが、アメリカの音楽がなぜ世界ですぐにヒットするかというと、庶民が地元の音楽家を育てているわけです。投資してるんですね。投資された音楽家は地元でコンサートをして、それを聞いた人の中からまた音楽家が生まれる。こういうイベントを通して、そういうシステムを作っていきたいと、思っています。素晴らしいですね。

審査とかあるんですか?

ないですよ。ただ、参加料が五百円かかります。それとお菓子の売り上げの一部を基金にして、クラシックやジャズのコンサートを開きます。生で音楽を聴くと、迫力が違うんです。そういう場にしていきたいですね。

watoさんとは同級生だったんですよね?

同級生どころか同じクラスであ何度も隣の席でしたよ。岩渕純とも同じクラスでした。ハワイアンの歌手のアネラさんもクラスは違ってましたが同学年で、私が演奏しているウクレレはアネラさんが選んでくれた物です。

何と!そういう事もあるんですね。どうして、一関市から、こんなにクリエーターが出てるんですかね?大槻三賢人が関係あるんですかね?そもそも何で、平泉に黄金文化が花開いたんでしょう?

藤原清衡公は十二年間、戦を続けていて、平和な道を模索して、日々、悶々としていたそうです。そこで仏教に出会って、仏教を基にした都市造りをして、そこに黄金や人材が集まってきたと、そういう事ではないですかね。

これからの夢とかはありますか?

平泉にゆかりの表現者たちを集めて、イベントをやったりして、空洞化になっている平泉の駅前に人を呼んで、祭と連動する形で新しい街づくりをしたいですね。