2015年10月13日

島地勝彦氏・菅原正二氏 対談

先日、東京の大塚で関中・一高会の同窓会が行われ、島地勝彦氏、菅原正二氏の対談が行われました。その時の模様をお送りいたします。


司会  定刻になりましたので、始めさせていただきます。関中/一高会結成60周年の記念対談として、対談者のお二人に登壇してもらいます。最初は島地勝彦さん、エッセイストでバーマンをやっておられます。第59回昭和35年の卒業です。二人目は一関の地主町から一高に曲がる角にあるジャズ喫茶ベイシーの店主、菅原正二さん、第60回昭和36年の卒業です。実はお二人とも水商売の方でして、島地さんは今日は伊勢丹にあるバーの出勤日なんですが、それをふってこちらに来られました。菅原さんは今日はジャズ喫茶を開く予定だったんですが、それをクローズして、こちらに来られました。実は伊勢丹のバーもジャズ喫茶ベイシーも休日になると、全国からお客さんがいらっしゃいます。そういう方々をがっかりさせる。これも一関一高を愛するが故でございます。お二人に特徴的なことは二つあります。一つは非常にこだわりの人です。もう一つは非常に素晴らしい方との出会いがあって、今日がある。そんな個性的な二人がガチンコでぶつかって、どんな話が出てくるのか、60周年にふさわしい面白い話が出るんじゃないかと期待しております。よろしくお願いします。

島地  私は山手線の恵比寿から来れば、この会場まですぐなんですが、正二さんは今日一番の新幹線に乗って、昨日の夜まで原稿を書いて疲労(ひろう)なんです。ただ、皆さんに会って元気をいただいたということです。

菅原  島地さんは広尾(ひろお)に住んでますよね。(笑)

島地  はははっ、私は広尾に小さなマンションを持っております。一関にも小さなマンションを持ってます。一関には三か月に一回ぐらい一週間ぐらい、帰ってます。そのぐらい、私は一関を愛してます。一関一高も愛してます。一高時代は学校嫌いの勉強好きだったかなと、反省してます。本はよく読みました。図書館の本は私が一番読んだんじゃないかというぐらい、体育の時間をさぼってはしよっちゅう本ばかり読んでて、現在もこういう商売をやっているというのは高校というのは人生において、相当、影響があるんじゃないかと思ってます。中学校から勉強を始めて、いい大学に入る。それも楽な人生でしょうね。正二さんは早稲田を出てるんだから、大したものです。いつも会うと「東京オリンピックまでは元気でやろうな」と言い合ってます。我々は物書きと水商売ということで、共通点があります。私の場合は完全に集英社を引退してから、ベイシーに通うようになり、今では無二の親友です。一週間に一回はFAXを交換して、電話をしています。この指輪、見てください。同じ指輪です。結婚しているわけではないんですよ。(笑)会うと充電してるんです。エネルギーを交換し合っているんです。そういう仲です。

菅原  充電ですけれども、大事ですよね。青春時代に雷に打たれたようなショックを受けたことが、皆さんもあるでしょうけど、これが充電で今日まで来ました。還暦を過ぎたころから、雷が怖くて横転しっ放しでした。ここのところを何とかしたいと四苦八苦して無理やり充電して、こんなことになってると・・・。(笑)

島地  皆さんもそうでしょうけど、高校も一学年下だと、全然交流がありませんよね。私もそうだったんですが、やはり『全ての道はローマに通ず』勝手にお互いここまで人生をやってきて、やはり同じようなところに落ち着いたということでしょう。

菅原  ローマまで言われると困りますけど、私は一関の衣川で道に迷ったことがあるんです。厳美から平泉に抜けようと思って。それで分からなくなって、農業やってるおじさんに「この道はどこへ行くんですか?」と聞いたら一言「どこさ行くのも一緒だ」と。(笑)ローマの道と一緒です。あの時、私は悟りました。

島地  そうですか。その農業をしてるおじさんが、現在日本に一杯いる有名な評論家よりも上だと。これは今先生がおっしゃってたことですけど「名物に旨い物なし、有名人に大したやつはいないよ」と。その言葉を私は今でも信じてます。私がベイシーによく行きます。渡辺貞夫さんとか、正二さんの人脈でよく呼びますけど、一関の経済効果はすごいと思いますよ。ホテルが満杯なんですよ。だから、私は一関に小さなマンションを買ったんです。いつ行っても、安心して泊まれるように。ベイシーの経済効果はすごいですよ。今日は一関市長はいませんか? 私は市長に言いたいですね。本当に頑張ってますよ。私は週末にしか、お店に出てませんが、正二さんは毎日ですからね。でも、一学年下で良かった。こういう人が、私より上だったら、相当、頭を下げなくてはいけなかったですよ。ここは少しばかり、私の方が強運だったかなと、思ってます。

菅原  高校時代は、島地さんは文学だったし、私はラッパばかり、吹いてましたからね。あの当時、一高には古藤先生がいらっしゃいましたからね。古藤先生が音楽のレベルを非常に上げたと思いますよ。古藤先生は芸大を出て、ベイシーに来て、カウントベイシーを聞かせたら、「なんとタイミングのいい音楽でしょう」と見事にベイシーの核心を衝くんですね。音楽の時間に生徒をベイシーに連れてきて、レコードコンサートを開いたりするんですよ。ですから、古藤先生が一関の音楽のレベルを上げたと思いますね。

島地  まあ一関一高には、いろんな面白い先生がいましたね。私が一番影響されたのは、英語の柳瀬先生ですね。

菅原  柳瀬先生(笑)

島地  呑んべーで。この先生に相当影響されて・・・。

菅原  柳瀬先生がブラスバンド部の顧問だったんですよ。

島地  そうなんですか・・・。私は音楽は全然ダメだったんですが、柳瀬先生には英語の原書を読むことを教わりましたね。それで柳瀬先生は大立山に家がありまして、私はしょっちゅう先生の家に行きましたが、すごいのはローソクで暮らしてるんです。「先生、どうしてローソクで暮らしてるんですか?」って聞いたら、電気料金を滞納していたらしくて、東北電力に「料金を払わなかったら、電気を止める」と言われて、飄々とした先生ですから「どうぞ、どうぞ」と言ったら、本当に電気を切られたそうです。私はローソクの炎がこんなに美しいと感じたのは、柳瀬先生の大立山の家でしたね。今は時効ですから話しますけど、すごいのは「ちょっと、まあ呑みに行きましょう」と、柳瀬先生は自分の家が狭いので、バーに案内してくれたんですよ。それで、私はバー通いを覚えて、今こうして、バーマンをやってるんですよ。みんなにお返しをしようと思って・・・。バーのカウンターは人生の勉強机だと、私は痛感しております。いろんなことを、バーのカウンターの上で、お客様やバーマンに教わって、私も失敗談をお話ししたりして、エッセイにも書いてます。それが現在の私なんですが、正二さんのすごいのは、私はいつも感心してるんですが、LPレコード、25分ですか・・・。

菅原  平均すると25分ですね。

島地  私と夢中になって話していても、正二さんは耳は聴いていて、LPレコードの曲が終わりごろになると、すっと立ち上がって、針を自分で落とす。そこは聖域なんですね。私なんかいい加減で、シェイカーを振るのが、面倒くさいと伊勢丹の若いやつに振らせて、出来上がったものは私がお客様の前に置きますけど、四十肩というのがありますけど、七十肩になって、痛くてシェーカーを振っていられなくなったんですよ。私も考えてスローで振っていたんです。結構、私のバーには一流のバーマンが来るんですよ。林さんという世界大会で優勝したバーマンがジーッと見て、「島地先生のスローシェーキングは、なかなか味がありますね」と、言うので、まあ、こういうのもあるんでしょうと、黙ってましたよ。(笑) 恥もうまく隠せるようになると、年の功ですね。私は74歳、庄司さんは73歳、まあオリンピックまでは元気だと思ってます。実は伊勢丹からは「86歳までバーマンをやってくれ」と言われてます。あと12年ですよ。それは不可能だと半分思ってます。でも、可能かもしれない。70を過ぎて、どう思いますか? 正二さん・・・。

菅原  なんか、非常にすがすがしいというか、邪念が消えましたし、向上心も捨てました。非常に楽になりましたね。向上心といいますけど、向上心も邪念なんですよ。もっと上手くなろうとか、もっといい演奏をしようとか・・・。こういうことを渡辺貞夫さんに言うと、叱られるんですけど・・・。渡辺貞夫さんは向上心の塊ですから。

島地  いくつなんですか?

菅原  私のちょうど10歳上ですから、83歳。

島地  すごいね。

菅原  とどまるところを知らない。逆説的に向上心を捨てた、と言うと「ダメじゃない。正ちゃん」と叱られるんです。でも、それには裏があるんです。捨てていくから、味が出るんです。にっちもさっちも行かなくなって、45年間経ちますから、これ以上、向上心を持っても明るい未来はないというのが、分かってますから・・・。このままでいいんだ、と。一種の開き直りですね。

島地  この指輪はスカル、骸骨。なぜ、こういう指輪をしているかというと、これを見て「年齢とともに死を忘れるな」ということを思っているわけです。人類というのは、死に対する行進ですよ。それを粛々として、受け入れるべきであって、もがいたりしては、いけないと思います。それが、私の74年の人生観で、もう一つの私の夢は年齢不詳になりたい、ということです。それを目標に、また生きがいに生きてるんですけど、なかなか難しいですね。(笑)

菅原  何者にもならない、というのも手ですよ。

島地  無というね。でも、正二さんは何者でもない、と言いながら、いつもお店に原稿用紙を置いて、ステレオサウンドに書いて、朝日新聞に連載して、今日の事も朝日新聞に載せるそうです。

菅原  今日も朝日新聞の一関支部の記者がわざわざ取材にいらしてくれてます。

島地  正二さんと私の違うところは、一つあって、全国からいろんなファンがベイシーにやってくるということです。北海道から若者や引退した人が一杯来て、初めて会う。懐かしい顔に会うというのもいいですけど、初めて会う興奮というのもなかなかいいものです。向こうが勇気を持って、直当たりしてくるんです。沖縄からも、この前いらしてましたよね。すごいでしょう? それは正二さんに対する想いだと、思いますよ。

菅原  それは渡辺貞夫さんのライブを間違えて、一週間早く来ちゃったの。(笑)来週ですよ、って言ったら「じゃあ、また、来ます」って、帰っちゃったの。昨日は西のお客さんが多かったですね。四国の香川県から来た、博多から来た、大阪から来た、と。

島地  私は正二さんが全国区になったのは、テレビの「ヨルタモリ」でタモリが正二さんに憑依をして、岩手のジャズ喫茶の吉原さんの役をやったからだと思いますよ。

菅原  あれはタモリが勝手にやってるんですよ。相談してやってるんじゃないかと言われるんですけどね。

島地  でも、正二さんの特徴をなかなか上手く、表現してますよね。

菅原  タモリは天才です。私が笑っちゃいますから。(笑)よく似せて、しゃべってますよ。あれは面白い番組ですね。

島地  私もほとんどテレビは見ませんけど、あの番組は必ず見てます。やっぱり、吉原さんが一番いいですね。ほかのやつはダメ。

菅原  言いやすいんでしょう。ジャズのことだし。

島地  よく知ってるから、憑依しやすいんでしょうね。

菅原  島地さんの書いた本の中に『悪党はケータイを持たない』というのが、ありますけど、私はケータイを持ってないんです。タモリが私の行方を捜してるんです。行方不明になっちゃうんですよ、店を出ると・・・。

島地  なるほどね。

菅原  タモリが「どこに行っちゃったんですか?」と。 

島地  正二さんはケータイを持たないけど、ケータイを持った美人を携帯するって、言ってますよ。(笑)

菅原  そういうところは、頭がいいからね。(笑) ところで、45年間も一高前で定点観測してますと、いろいろ変わりますね、生徒の質も・・・。ある時から、男女が手をつないで平気な顔をして、歩いてますし、最近は中高一貫になったので、中学生が通るんですね。中学生は挨拶するんですよ。私も「お疲れさまでした」と挨拶を返したりして。(笑)

島地  中高一貫教育ですが、校長先生に聞いたんですが、中高一貫にしないと、日本の学力は間に合わないみたいですね。今、一高の先生は若返って、予備校みたいになりましたね。

菅原  それは、どうでしょう。(笑)

島地  ベイシーに中学生や高校生が入ってくるのを見たことがありますが、学割で安いんですよね。

菅原  タダでもいいんですよ。高校生なんかは。

島地  将来の布石を打ってると思うんですよ。このことは重要ですよ。伊勢丹は厳しいところで、18歳、19歳の人が入ってくると、お酒はダメでコーヒーや紅茶を出すんです。お酒は800円でコーヒーは2000円で紅茶は1500円です。だから、「高いの飲ませるより、安いお酒でいいんじゃないか」と、私は言ってるんですが、伊勢丹側は「ダメです」と。営業が三、四人、いますからね。もし私に直当たりしたかったら、いつでも皆さんをお待ちしております。人生の悩み事でもなんでも相談してください。私で分からなければ、正二さんに振りますから。

菅原  一番最初のテーマを忘れてました。人生の初期の段階で巨大な人に出会って、心酔して、そのことが非常に重要じゃないかと・・・。それで今日、こうなってると・・・。島地さんは、ご存じの通り、今東光大僧正、開高健、柴田錬三郎の薫陶を受けて・・・。まあ、そのように立派にはなってませんけど、肩に背負って死者が甦ってますから。私は学生時代から、ジャズの神様の野口久光先生。他にもいらっしゃいましたけど、野口先生が圧倒的だったんです。その後、カウントベイシーが現れて・・・。どうも、大物に会う運命なんですね。そういう人たちと付き合うようになって、それが財産ですね。

島地  よく分かります。私も世間的に立派な今先生、柴田先生、開高先生に初めて会った時、こっちがその人の作品を読んで尊敬してると「おっ、こいつ可愛いやつだ」と思うんですね。そのぐらい作家というやつは孤独なんでしょうね。今、正二さんが言った野口先生の素晴らしいのは、映画のポスターは世界一の名匠ですね。『居酒屋』・・・。

菅原  『禁じられた遊び』もそうですし、『大人はわかってくれない』のポスターはトリュフォー監督が一生、自分の部屋に飾ってましたから。

島地  それぐらい凄い人なんです。

菅原  フランスの映画より、ポスターの方が芸術的でしたから。今、各地で野口先生の展覧会をやってます。そのうち、また、大きいことを考えてますけど。

島地  皆さんもそうでしょうけど、社会に出てから・・・。私はたまたま編集者になりましたけど、相性でしょうね、人間というのは。究極、人生は運と縁ですよ。努力はあまり関係ない気がしますね。どうですか?

菅原  私は棒を立てて倒れた方のどちらに進んでも、大差ない、と思いますね。

島地  芸術家という人は右へ行けば困難、左へ行けば艱難。歴史に名を残したアーティスト、たとえばモジリアーニやモーツァルト、藤田嗣治さんも、難しい方に行ってますね。そこが我々、一般人と命を削る芸術家というか挑戦者と違うところです。

管原  とりあえず、皆の行く方向と逆方向に行くことがコツなんです。

島地  そういうのは難しいんですよね。

管原  私は子供の頃から、そういう性質で。皆が西に行ったら東に行くみたいな。未だにそういう路線をやっております。

島地  でも、高校時代に古藤先生に出会って、音楽に目覚めて、早稲田に入って、ジャズをやって、それでプロの世界にも行ったんでしょう?

菅原  一応プロになったんですけど、上手い人はたくさん、いますからね。古藤先生からは、音楽というより、純粋ということを学びましたね。世の中にこんな純粋な人がいるのかと思いましたね。

島地  古藤先生、いい顔してましたからね。高校時代、いろんな先生に教わりましたけど、面白い先生がいましたね。今もいますかね。個性的な先生・・・。

管原  校長先生はたまにベイシーで、コーヒーを飲んでいきますけどね。

島地  今も先生はあだ名で呼ばれてるんですか?

管原  呼ばれてます。伝統なんですね。それが、いいですね。

島地  愛称ですよね。あだ名で呼ばれるのは・・・。考えるとすごい先生がいましたよね。英語の柳瀬先生には一番、影響されたんですが、集英社に入った時「今度は私が一杯」と、居酒屋に行って、呑んだこともあります。あの先生も早稲田だったかな。

管原  柳瀬先生はブラスバンド部の顧問だったんですが、一番良かったのは私の言うことに何も文句、言わなかったことですね。

島地  ははははっ。

菅原  好きだったら、自由にやれ、と。

島地  その頃から、リーダーだったんですか?

菅原  どこに行ってもリーダーをやらされたね。中学校の時にハーモニカクラブのリーダーをやって、高校ではブラスバンドのリーダーを・・・。早稲田ではハイソサエティ・オーケストラのリーダー。何か、割りと恐れもの知らずで、今は一人でこっそり・・・。

島地  はははっ、二人でオリンピックまで、頑張ろうと言ってましたが、ちょうどベイシーは50周年なんですよね。

管原  今、45年目なんで、オリンピックの年はちょうど50年なんですよ。50年やったから、まあいいか、と。

島地  もっと、やってくださいよ。二人でリニアモーターカーが走る2027年ですか。その時までやりましょうよ。一緒に乗って、やめましょうよ。名古屋で一杯呑んで。

菅原  我々が心酔していた人を振り返った場合、殺伐たる光景が広がっていまして、我々の力不足なのか・・・。我々を褒めてくださる人も、いるかいないか・・・。消えてってしまう・・・。

島地  人が本当に死ぬということは、誰の口にも上らない・・・。それが本当の死です。いずれ、我々も含めて、名前も忘れ、存在も忘れ・・・。それが本当の死です。私の師である、今東光、柴田錬三郎、開高健、この三人を全く知らない若者もバーに来るんですが、せっかくだから、上野にある今先生のお墓をお参りしていったらいいよ。必ず何かあるから、と言ってます。実は月一回、神戸に住んでいる若者が舌ガンで二か月後に手術するんで、「しばらく来れないよ。今度来ても、もう喋れないよ」その男は酒を呑み、葉巻を吸います。「もし、そうなっても見捨てないでください」「何、言ってるんだ。絶対に治るように祈ってるよ。ただ、一つだけお願いがある、帰りしなに上野寛永寺にある今先生の墓参りに行って、心からお願いして手術しなさい」それから、三、四か月後に戻ってきて、「先生のおっしゃる通りでした」5キロ位太って、ステージ1だったことも、ありますが、今、サロン・ド・シマジで酒を呑んで、葉巻を吸ってます。「この世には神様がいます。私をえこひいきしてくれる神様が・・・。私を罰する神様はいません」このように真剣に祈ると、そういう効果があるんです。これは朝日新聞にも書かれましたが、伊勢丹にあるサロン・ド・シマジはニューパワースポットと呼ばれてます。面白いでしょう?九か月ほど、やった頃に、本当に知らない男と女がめぐり合って、結婚して子供もいるんです。すごいのは伊勢丹の写真館で親子三人で写真を撮って、私のところに挨拶に来ました。三年もやってると、いろんな事が起こります。一人でも人口を増やしたのはすごいことです。(笑)

菅原  たしかに、すごいパワーだ。(笑)

島地  私が三か月に一回、一関に帰るのは正二さんと本当に深い話を深夜の1時頃まで、ぼそぼそと話してます。

菅原  島地さんがベイシーに来ると、全国から島地教の信者が集まってきて、大騒ぎなんですよ。この間は一週間にわたって、どんちゃん騒ぎで・・・。それを島地あらし、といいます。(笑)みんな、名刺を作ってるんですよ。剣道七段の方は「島地勝彦 公認 護衛官」(笑) 

島地  「島地勝彦 公認 執事」とか、みんな勝手に名刺を作って・・・。宗教化してるんです。モスク化してるんです。(笑)そこへ、正二さんがやってきて、二人でぼそぼそと。

菅原  見るからに怪しい。(笑)

島地  ただ、私は元気が正義だ、ということを若者に教えたい。その他の正義なんて、この世に絶対ないです。「天皇陛下万歳」と言って死んだのは、全くの誤りであって、絶対に人生は元気だということ、それ以外には何もありません。あと、もう一つ、今先生がお亡くなりになる前に書をいただいたんです。最後の絶筆です。遊戯三昧(ゆげざんまい)という言葉です。これは新宿のバーに飾ってあるんですが、この遊戯三昧という言葉ですが、天台宗で一番、難しい教えなんです。遊びの中に真実がある。正二さんを見てると分かりますね。(笑)

菅原  何か面白いことはないかと、そればかり考えてます。それ以上の野望というものが、全くなかったですね。そんなものです。

島地  私が一関に行ったのは、戦争で一家で疎開したんですが、正二さんは先祖伝来、一関にいて・・・。これは正二さんから聞いたんですけど、戦争の時代、三歳か四歳の頃、サーカスのライオンの肉を食べたことがあるそうです。話してくださいよ・・・。

菅原  上野動物園でもあったそうですが、ライオンが檻から出ると危険なので、猟友会で射殺することになって、私の祖父に話が来たそうです。じいさんは「撃つのが嫌だった」って言ってましたね。檻の中にいるのを撃つというのは・・・。まあ、戦時中だったので、その肉は無駄にはしなかったという。こういうオチがつきます。

島地  ライオンの肉を食べた人って、そうそういないと思いますよ。

菅原  渡辺貞夫さんにその話をしたら、俺、アフリカで食ったよ、と。

島地  そうなんです。私がライオンの肉を見たのはベルリンのデパートの地下一階に行きますと、ライオン、豹の肉が売ってるんです。一緒に行った通訳兼ドイツの留学生で、「島地さん、これライオンの肉ですよ」というので、「食いたい」と言ったら、でも、「ホテルでどうやって食べるかな」と。姿形は見ました。

菅原  ヒグマの刺身を食べたとか・・・。

島地  ヒグマは刺身かステーキですね。北海道の山の中で漁師が一か月かけて、一年に一頭、撃つかどうか。私はヒグマの全部位の肉を譲り受けて、食べました。一番、上手いのは左の腿ですね。油が三分の二、身が三分の一しかない。この脂身の中に何とすもも、クヌギ、栗、どんぐりの香りがする。獰猛な生き物ですけど、植物しか摂取しない。2000メートルの山に住んでますからね。鮭を食べるのは俗な熊ですよ。里山に降りてくるような熊です。崇高な熊は植物しか食べないんです。

菅原  島地さんが一関に帰って来た時に、富澤という美味しい魚屋さんがあって、本マスが入ったんです。島地さん、一関にいる一週間、毎日、富澤に行って本マスを食べてたんです。私らが行ったら、島地さんに食べられて品切れです。と。(笑)

島地  大型連休の後に現れる宮古の本マスが上手いという。なぜ私がこれを知ったかというと、いろんな作家と料亭に行って、「この本マスはどこから仕入れたの?」と聞くと、「宮古です」と。毎日、食べても飽きない。サケと違って品がいい。

菅原  本当に毎日、行ったんですよ。島地さんの講釈を聞きながら食べると、なんか美味しいですね。

島地  ぜひ皆さん、富澤の本マスを食べてください。それで、安いんですよ。料亭では一万円ぐらい、するんですが、富澤では800円。

菅原  それを知ってるから、余計おいしく感じるわけ。(笑)後で冷静に考えたら、「これ昔から食べてたよ」って。(笑)と、いうわけで、話は尽きないですね。

島地  ええ、この続きは一関でやりましょう。

菅原  あまり有意義な話はなかったですね。本当はいろいろ、あるんですけど・・・。(笑)

島地  我々は水商売ですから、夕暮れと共に、面白くなっていくんです。一関に帰省の際はぜひベイシーに立ち寄って、素晴らしいスピーカーでジャズを聴いてください。

菅原  まだ頑張って、やってますので。

島地  一関が誇る文化遺産です。いえ、世界遺産です。

司会  この続き、第二弾の対談はあるか、ないか・・・。皆さん、どうか楽しみにしていてください。それでは今日はどうも、ありがとうございました。