2015年3月23日

島地勝彦さん インタビュー

本日は元週刊プレイボーイ編集長、集英社インターナショナル社長、現在はエッセイスト&バーマンの島地勝彦氏を紹介します。


〈経歴〉
東京都奥沢に生まれ、四歳で一関市に疎開、中里小、中里中、一関一高、青山学院大学
〈著書〉
 『甘い生活』 講談社
 『えこひいきされる技術』 講談社
 『乗り移り人生相談』 講談社
 『愛すべきあつかましさ』 小学館
 『人生は冗談の連続である』 講談社
 『知る悲しみ』 講談社
 『はじめに言葉ありき おわりに言葉ありき』 二見書房
 『お洒落極道』 小学館
 『異端力のススメ』 光文社文庫
 『迷ったら、二つとも買え!』 朝日新書
 『バーカウンターは人生の勉強机である』 ペンブックス
 『蘇生版 水の上を歩く? 酒場でジョーク十番勝負』 CCCメディアハウス



よろしくお願いします。

こちらこそ。

島地さんは一関一高時代、作家の山川修一さんと同人誌を作っていたと、聞きました。

ええ、彼は私たちより四、五歳上でね。大人でしたね。

四、五歳上?

身体を壊していたんじゃないかな。それで、進級が遅れたんですね。

どんなものを書いていたんですか?

小説ですよ。ふふっ、恋愛小説で、ガリ版刷りで印刷して本にして売ってましたよ。

売っていた? お金はどうしたんですか?

全部、呑んでしまいましたよ。

これは個人的に聞きたい質問ですけど、週刊プレイボーイに本宮ひろしさんの『俺の空』という作品がありましたよね。旧制一高の格好で日本中を旅するという漫画ですが、島地さんのアイデアだったんですか?

その作品が終わった頃、副編集長になりましたからね。ノータッチですよ。ただ、本宮さんとは仲が良くて、週刊プレイボーイに俺の空 番外編」を頼んだら二つ返事で引き受けてくれましたよ。

小峯隆雄さんについてもうかがいたいのですが。

内藤陳さんの深夜プラスワンというお店が新宿ゴールデン街にあって、私の隣で呑んでたの。面白いやつだと、編集部でバイトに雇ったんですよ。今、つくば大学で非常勤講師をやってます。どうやって潜り込んだんだろうね。(笑)

つくば大学、優秀ですね。小峰さんは週刊プレイボーイの編集者というのを前面に押し出したタレントでしたが、島地さんのプロデュースだったんですか?

いや、違いますね。11PMやオールナイトニッポンに出てましたが、そこ止まりでしたね。もうちょっと、上に行くと思ったんですが。(笑)

いえいえ、私は小峰さんの大ファンでしたよ。オールナイトニッポンは、よく聞いてました。(笑) ところで、一関一高時代の武勇伝を聞きたいのですが。

高校二年生の時から、バー通いをしていました。そうしましたら、一関一高の校長に怪文書が出回りましてね。島地がバー通いをしていると・・・。

それは大変だったでしょう。

ええ、大島先生に呼ばれて、「君はバー通いをしているそうじゃないか。もし本当なら、退学か転校だな」みたいな事を言われて。その時はシラを切りましたよ。証拠がないんですから・・・。その時、私の父は一関小学校の先生をやってたんですよ。それで、大島先生に「考えてみてくださいよ。私の父は小学校の先生ですよ。バーに行くお金なんて、ないですよ」って、言ったら、それもそうだなって、納得してくれて、『不問に付す』と。それが、現在はバーマンになってるんですから、面白いでしょう。その十年後ぐらいに同級会があって、大島先生は県の教育委員長になられてて、その席上で「君は本当はバーに行ってたんだろう」「いえ、ただの風聞です」と・・・。大島先生は、まだ覚えてました。私が思うには、大島先生は知ってたんだと思いますよ。それでも、知らないふりをしてくれて、感謝しています。それが一高時代の最大の思い出ですね。ただ、一高時代は文学青年で本ばかり、読んでました。

私と一緒ですね。

サマセット・モームの全集を持っていて、全巻、読みました。非常に影響されました。あの皮肉っぽいところが・・・。

私は『月と六ペンス』読みました。

そうですか。六ペンスは指輪にしてます。ペンダントは二千三百二十年前のアレクサンドロス大王の銀貨です。国を征服すると、兵隊に給料を渡すために作ったお金です。シリアの砂漠でアメリカの有名な考古学者が、この銀貨を見つけたんです。あまりに綺麗だったので、本当はミドル・ピース以上は献納しなくてはいけない決まりになってるんですが、一個位いいだろうと、ポケットに入れて持って帰ってきたんです。その考古学者の息子が考古学にあまり興味がなくて、父親が亡くなった時に、その銀貨をネットオークションに出したんです。私のファンがそれを落として、持ってきたんです。『アカの他人の七光り』という私の著書にアレクサンドロス大王の伝記を書いていますが、それをその人が読んで私が持っているより、島地さんが持っている方がいいでしょうと・・・。私が死んだらお返しします、ということで永久貸与です。このネックレスが月で、指輪が六ペンスという見立てです。他にはバルザック、スタンダールとか、読みました。

スタンダール、『赤と黒』ですね。

その『赤と黒』を夜の二時頃、読み終わりまして、その頃は一関駅前に住んでいて、「この街にはレナール夫人は、いないなあ」と、叫びながら、歩いたのを覚えています。(笑)私は高校時代、原書で読めるぐらい英語が得意でして。柳瀬という英語の先生がいたんですね。その先生に影響されて、いろんな本を読んでいたんです。一関一高は私にとっては、青春でしたね。

スポーツはやられていたんですか?

いえ、全然・・・。部に入って、先輩、後輩といったものが苦手でしてね。

大学は青山学院大学ですよね。そこでも、スポーツはされなかったんですか?

ええ、全然。スポーツらしいことといえば、私は二十五で編集者になりましたが、担当になった柴田錬三郎さんにゴルフをやれ、と言われて、ゴルフを始めたぐらいですね。

そうですか。伊集院静さんが、島地とゴルフをやって賭けたら、島地の右に出るものはいないぞ、とか何かの本に書かれていましたが・・・。


伊集院さんがオーバーに書いているだけで・・・。それに私にギャンブルの才能はありません。


ギャンブルはされた事はないんですか?

編集部は皆、ギャンブルをやりますよ。オイチョカブ、ドボン、麻雀・・・。私は柴田錬三郎さんの担当になった時、京都の偉い易者に運勢を見てもらったんです。その頃、私は歌がダメだったんですよ。流しがギターを弾きながら、それに合わせて歌を唄う、今でいうカラオケみたいなものが、呑みに行くとあったんです。編集長になると「お前、歌え」と言って、歌わなくていいんです。それで、早く編集長になりたくて、占ってもらったら、「あなたは十分編集長になれるし、社長にもなれる。ただし一つ条件がある。今日からギャンブルをやめなさい」それ以来、ピタッとやめましたよ。そうしたら、週刊プレイボーイ、月刊プレイボーイ、Bart、三誌の編集長になりましたし、集英社の関連会社ですが集英社インターナショナルの社長にも、なれましたその易者の言うことは当たっていましたね。人生は運と縁とセンスですよ。

努力、根性、ではなくて・・・。(笑)

いやいや、運ですよ。まあ、毎週、五十二、三万の部数だった週刊プレイボーイを百万部にしたのが、私の唯一の功績ですね。

実は私、高校を卒業した後、国鉄に行きまして、車掌になって、盛岡、青森間を行ったり来たりしてたんですよ。キヨスクに週刊プレイボーイが売られてまして、乗務するたびに、それを買って帰るのが楽しみだったんです。

私が編集長をやっている時ですか?

まさにその時期です。百万部の読者の一人は私なんです。

はははははっ、そうですか・・・。

くだらない企画がたくさん、ありましたよね。(苦笑) 五月みどりさんとか・・・。

はい、五月みどりさんが童貞と混浴するという、『童貞混浴セミナー』ですね。

よく五月みどりさんがOKしましたよね。

私が口説いたんですよ。でも、最初は水着で入ると思ったんですよ。そうしたら全裸で入ってくれましたよ。

そうだったんですか?

ええ、そうですよ。連載は五回ぐらい、やりました。毎週、三千通ほど、全国の童貞の方から応募があるんですよ。学生が多かったですね。学生を読者に取り込んだことで、部数が百万部になったんです。我々のコンセプトは話の分かる兄貴になろう、ということでした。良いことも悪いことも、面倒をみようと・・・。それが成功したんですね。

私も大いに勉強させてもらいました。(笑)

ハハハハハッ、東大法学部で童貞という学生が応募してきて、いずれ裁判官になるから採用すれば、将来、週刊プレイボーイに何かあったら、惻隠の情で助けてくれるんじゃないか、というので、採用したこともあります。『小泉今日子さんのヌード以上』という企画もありました。

私はその企画に騙されましたよ。(笑) あの頃、いろんなアイドルが脱いでましたから、とうとうキョンキョンもやっちゃったか。まあ、篠山紀信あたりが口説けばヌードになるのかな、と。袋綴じのグラビアに小泉今日子のヌード以上の写真があるというので、開けてみると小泉さんのレントゲン写真・・・。(笑)

あなたも騙されましたか・・・。(笑) 後は『頑張れ平凡パンチ』ですか。

はい、週刊プレイボーイのライバル誌の平凡パンチがどんどん部数を減らしてきて、それにエールを送るという内容でしたけど、自慢話とホメ殺し・・・。(笑)

私はハスに構えて記事を作るという事を部下に教えましたね。四つに組むなと・・・。それが週刊プレイボーイ・ジャーナリズムです。今の週刊プレイボーイは全然ダメです。マジメ過ぎて、ユーモアがない。ユーモアが大切なんですよ。グラビアも大した事がない。AKBとか集団でしか発信できない。昔は浅野ゆう子とか、いましたよ。

時代が変わったんですかね?

時代も変わったし、編集者も試験が難しくなって、優等生しかいなくなりました。

天下の集英社ですからね。

私が入社した時は百五十人位でしたが、辞めた時は八百人、それ位、隆盛を極めましたね。漫画で大きくなったんですよ。

少年ジャンプですね。実は以前インタビューした佐藤正樹というアニメーターが、スラムダンク、キン肉マン、北斗の拳など、少年ジャンプの漫画のアニメの総作画監督をしてるんです。一関って面白い街でしょう? いろんな才能が出てるんですよ。

やはり一関は学問の街なんですね。大槻三賢人を輩出してますし、和算の街でもあります。

一関藩の家老が算聖、関孝和の関流算術の第五代目ですからね。

ベイシーの菅原正二を生んだだけでも、凄いよ。(笑)

たしかに菅原さんは疎開ではないですものね。

私は疎開ですよ。小学校に入る前に一関に来ましたからね。純粋な一関人ではないんですけど一関を愛してますよ。一関にマンションも買いましたから。

NHKのBSで『全身編集長』という、島地さんを主人公にした番組がありました。

プロデューサーが私の編集長時代の週刊プレイボーイのファンで、どうしても私を番組を作りたいと、言われまして。でも、テレビはこれでおしまいです。テレビは所詮テレビですよ。私は自分の書いた文章のファンになってほしいんですよ。ゴーストライターも使いません。私独特の味が出ませんから。

PENの連載は私も読んでます。今回はマッカーサーの話ですね。

この連載の特徴は有名人の葬式に行って弔辞を読んでるんですよ。チャーチルとか、藤田嗣治とか・・・。私は藤田嗣治が大好きでね、ここにも一枚猫の絵がありますけど。ファンの方が持ってきたんですよ。ファンって、凄いですよ。貢物が多くて・・・。(笑)伊勢丹の社長の大西洋もスーパーバイヤーの藤巻も私のファンでした。それで、伊勢丹メンズ館の八階にシガーバーのサロン・ド・シマジを開業することになったんです。私のファンはコアなんですけど、熱狂的なんですよ。

そうですね。不思議な人生訓というか・・・。

格言好きですからね。

正しいことを言っているのか、間違ったことを言っているのか、よく分からないですよね。

あはははははっ。その通り。でも、一理あるでしょう?私の考えた格言で一番人気があるのは、「男と女は誤解して愛し合い、理解して別れる」というのがあります。次に人気があるのは、「浮気がばれたら、実刑はないが時効もない」浮気がばれると女房に死ぬまで言われないといけない。さる九十三歳の男性の知り合いがいるんです。いつも元気なんですが、ある時機嫌が悪い。「どうしたんですか? 身体の調子でも悪いんですか?」と聞いたら「いや、女房が五十年前の浮気をいまだにグチグチ言うんだよ。こっちはもう、顔も名前も忘れたっていうのに。それで、この格言を考えたんです。その人の女房は八十八歳ですよ。この格言は真理です。女房は戦友ですね。そう思わないと・・・。

たしか島地さんの奥さんは一関出身ですものね。

そうです。古関常夫という一関で助役をやった方がいて、女房はその娘なんです。女房のお兄さんと仲が良くて、妹の面倒を見ているうちに結婚したんです。

集英社で就職が決まった時に同棲がばれて、大変だったとか。

ええ、一緒に住んでいるのを見られて、大変でしたよ。土下座して、集英社に入れてもらいました。ですから、私はいくらかは運があるんです。人生は運と縁です。縁はすごい人がいると思ったら、自分をアピールして仲良くしてもらう。私が現在あるのは、私の本のタイトルにも、ありますが『アカの他人の七光り』ですよ。

あのテレビで見たんですが、娘さんをガンで亡くされてますよね。

ええ、娘が三十六の時でしたね。

何年ぐらい前なんですか?

七年ほど前ですね。まあ、これも運命だと思いましたね。私の文章にもよく書いてますが「人生は恐ろしい冗談の連続である」と。私が編集長になったことも恐ろしい冗談、嬉しいことも哀しいことも、そう思っていれば、間違いないんですよ。人間には生まれた時にシナリオライズされた寿命というものが、あります。

そうですか・・・。あの一関にメッセージをいただきたいのですが。

それは、簡単、私の著作を全部読んでください。そこに私のメッセージがあります。後は新宿伊勢丹メンズ館八階にあるサロン・ド・シマジに来ていただければ、私が直接、お答えしますよ。(笑)

今日はどうもありがとうございました。

こちらこそ、スランジバー。